言葉は自由か
我々の祖先が地球上で生活を始めた頃、狩猟と採集による生活を営んでいたと言われている。
当然ながら大勢で行うほうが安定的した成果が得られる。それは誰か一人が獲物を逃がしたとしても、別の誰かが捕獲できる可能性があるからだ。
このような生活を送るためには他者と意思疎通するための道具が必要だ。
おそらくそのような経緯で言葉が発明されたのだろう。
世の中には様々な文化や文明、芸術、技術、思想などが存在するが、言葉が存在しなければおそらく生まれなかったものが大半だろう。
長くなったけれど、ここからが今回のお話。
人は言葉によって表現の自由を得たように思えるが、それは本当だろうか。
一般的に使用される言葉は全て意味が定義されている。
これは意味が定義されていない表現はできないということだ。
日ごろ我々が話す時には、だいたい近い意味の言葉を選んでいるのではないだろうか。
正確に表現すると、自分の考えや気持ちの表現にだいたい近い意味の言葉を選んで、誤差を無視してその言葉の意味の通りである、と思い込んでいるのではないだろうか、となる。
本来、感情や思考は複雑で多様性に富んでいる。
人が話す時には、予め定義された有限個の言葉のうち、自らが扱える言葉の範囲から選んで使用することになる。その限られた範囲に「ぴったり」の表現がどれほどあるのだろうか。
生まれたばかりの子供にとっては全ての言葉は音の塊であり、表情や動作などを繰り返し見ることでなんとなく自分なりの理解をする。
とても自由な感覚だと思う。
しかし、成長するにつれて学んだ意味を基に意味を理解していく。
言葉による不自由さの始まりでもある。
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