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海外留学体験記 #4 イタリア人と文学

イタリア語を知らない人でも"チャオ"とか"パスタ"と言った単語がすぐ浮かび、
何となくイタリア語の発音は日本人にもさほど難しくないというのは想像出来るかと思います。
実際ほぼ難しくないのである程度イタリア語を習えば発音の問題で相手に通じないという事は殆どありません。
しかし厄介なのが文法です。イタリアではダンテが文学を締めてるというか、、正しく長く、素晴らしいと、文学の最高峰に位置しているので想像を絶するくらい私には手に負えませんでした。

小学校からダンテを暗唱したと50過ぎのイタリア人に神曲の冒頭部分を話し出されたことがあります。日本では百人一首を暗記させられたのと同じ感覚でしょうか?
とにかくイタリア語の文章は長い、長い。1つの文章のピリオド(プント)、”まる”までが長いので私はそれだけで疲れますが、イタリア文学の父、ダンテ愛はあちこちに存在しています。

とにかくダンテ発祥(文学の美学)なので文学作品、書物になっているものは1つのフレーズが非常に長い。大学でこの本を読みなさいといった課題が出されても読んでいるうちに、、、で、何についての説明だったろうか?と私は必ず迷子になっていました。要は文章の中で1つの事を説明している最中に違う例を入れ込んだら、それについてもしっかり説明してといった横槍が本筋並みに長い(私の体感)。全ての事に説明がつく状態にするのがどうもラテンルーツの言語の特徴らしく、先にこの文どこまで続くかな?と先にピリオド(プント)を探せ!ゲームが発生するくらい。(私の中で)
おそらくフランス語やスペイン語でも同様と推測します。

私は元々読書嫌いなので余計にイタリア語の本を読む事が苦痛だったのかも知れませんが、かなり、結構、すごく泣かされました。あまりにも会話と文学の差がある言語なのである日、これについてどう思っているのかイタリア人に尋ねてみると、意外な答えが返ってきました。
「私が文を書いたところでダンテの様に美しく長く正しい文法のものは書けない。醜いものしか仕上がらない。」と。
そしてこれは私が「私は文章を書くけれど、夏目漱石のように美しい文学は書けない」というニュアンスとは全く別だったのです。

驚いた事に、美しい文学や文法を理解しているイタリア人ではありますが、人によれば文章を書いてもこれはイタリア語ではない、何を書いているか全くわからないという事態が発生するというのです。ちょっと理解に苦しみますよね。要するに私は日本語の読み書き会話が出来て、その私がこうやって書いている文章は私の文章であり、オリジナルであるが、日本語を知っている人なら誰でも理解出来る。説明の仕方や表現に乏しさはあろうと書いていることは相手に伝わっているという事実があります。しかし、イタリアではイタリア人として生まれ、会話も出来て本を読めてもいざ自分で文章を書くとなると、"それが相手に伝わるかどうかという点については別"というのです。私はその時期卒論に追われており、もう気絶しそうな気持ちで内容をまとめていたのですが、それを聞いて、では、外国人の私がイタリア語で論文を書くなどなくなれば良いのにと思いました。
(今は知りませんが、その時はスペインでは芸術大学の卒論はありませんでした)
そしてひたすらスペインを羨ましがっていたのです。

私はもちろん一人では書けないのでイタリア人の友達に構成を相談し、添削してもらって泣きの毎日だったのですが、同時に共通の友達のイタリア人の卒論も手伝っていたのでその内容を聞くと、何を書いているのかさっぱりわからないという答えが返ってきたのです。
私は気のせいだと思い、文章が下手なの?と聞き返すと本当に何を書いているかわからない。あれはイタリア語ではないと言い切りました。私は?イタリア人じゃん!と言い返しましたが、彼も笑って「イタリア人でイタリア語を話し、イタリア語を理解するけれど、奴の書いている文章はイタリア語ではなく、あいつ語だ。あいつにしか内容はわからない!」と言い切りビックリ仰天しました。
彼は文学部で私たち(芸術学部)の話について行けてないのかとも思いましたが、そうでもないとの事でした。

私の推測ですが、美しい文学の定義の一つに正しく長い文章がありますのでそれに習うとどんどん文章が複雑化し、訳がわからなくなってしまったのではないでしょうか?私は本人のその文章を見せてもらったわけではありませんが、(見てもわからなかったと思われるが)きっとそうでしょう。
なのでイタリア人が美しい文章は無理と言うのもただの冗談ではなく、イタリア語あるあるかもしれません。そう言えば、いろんな窓口でものすごく事細かくある事柄について説明しているシーンをよく見かけましたが、それもその一端かも知れません。口では最終的には決着がつきますが、文章は変形しないので書かれたものからの推測では足りないものが未解決のままとなりますから。

ところで、私はイタリア(ヨーロッパ全般と思いますが)本事情について大変衝撃を受けたことがあります。それは課題で出された本を勉強していたイタリア人の行動を見て知ったのですが、なんと、その本(ペーパーバック)の重要事項に鉛筆で線を引いていたのです。そして本の最後の数ページ、白紙になっている部分にも何か書き込んでいたのです。
印をつける道具として鉛筆を使っている事に衝撃を受けました。きっと後で消せるからという意味だと思いますが、私は鉛筆で線を引いても色の差がないので分かりづらいし本に直接書き込んでしまうのも惜しい気がするタチです。私は大体付箋を付けますが、しっかり文章の頭を捉えないと、このページのどこを残したかったんだっけ?とページを読み返すこともしばしばでしたからしっかり線を引く方が効率もいいし勉強してる感増すなと思いました。余白に書き込むことにはメモの要素を見出しました。これはきっと出版社の問題で余った分をそのまま残してあるだけと思われますが、最後に余白ページが数ページある本をよく見かけました。これ自体にビックリしていましたが、
そこに書き込むのがなんだか新鮮でいいなと思ったのです。とっても些細なことですが、こんな違いを見つける度に新たな視点が追加され、海外生活の楽しさを知るのでした。

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