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「心はどこにあるのか?」を説明する

 「心はどこにあるのか?」そう訊かれたらみんな、なんて答えるんだろう。やっぱり心臓のあたり?それとも脳が入ってる頭を指差せばいいんだろうか。
 以前これに「心は体より広い」と答えた人がいる。心は体全体を覆っていて、体の外にはみ出ている。私たちは「心の中で」生きているのだと。
 
 おもしろい回答だった。確かにそうかもしれない。証明しろと言われてもできないが、なんだか妙に「わかる」話ではある。自分なりにどうにか、証明に近いことをやってみよう。
 
 たとえば隣にいる人が、ガチガチに緊張していたとする。そうするとピリピリした空気が伝わってきて、関係ないはずの自分まで雰囲気に吞まれてしまう……。こういうのは珍しい話じゃない。
 
 心は人体内部にしまいこまれているなら、互いの心は干渉しあえない。あなたの内部で起こることと私に起こることはまったくの無関係だ。隣の人がお腹を痛めていても、つられて私も腹痛になったりはしない。心が内側におさまっているなら、緊張なんて伝わってこないはずだ。
 
 でももし心が外側を覆っているなら話は違ってくる。互いに並んだ人の心同士、重なりあう部分が出てくるからだ。──こんな感じで。

絵が下手なのは許してほしい


 こうやって互いにまとった空気、もとい心がにじみ出た空間を共有しているとすれば、緊張が伝わってもおかしくない。「わたしすっごくドキドキしてるんです」と口に出さなくても、ピリピリした心が外側にあふれ出ているから、人にもそれがわかる。
 
 科学的な根拠は一切ない。でもおもしろい説明だ。たまに、自分の考えたことが相手に瞬時に伝わってびっくりすることがあるけど、あれはこういうメカニズムなのかもしれない。そういうことができる人は「察しがいい」と呼ばれて、第六感があるような扱いを受けているけど、そんなオカルトな話じゃないだろう。
 
 きっとそれは「鼻が利く」くらいの話なのだ。匂いに敏感な人がいるように、他人からにじんでいる心に敏感な人もいる。匂いを嗅ぎ分けられる人と、そうでない人がいるように、他人の心によく気づく人もいれば気づかない人もいる。
 
 匂いにたとえるとわかりやすい。目には見えないけど、確かにそこにあるもの。心もきっとそんな感じだ。
 
 落ち着いている人の横にいると、自分も妙に安らかな気持ちになる。相手の落ち着きのほうが、自分のあわただしい気持ちより強いのだ。どちらがいいとか悪いとかじゃない。匂いの強いほうが弱いほうを駆逐するのと同じで、心の世界では強い感情を持つほうが場を呑み込む。
 
 もし、ものすごく苛立っている誰かのそばにいたら、よっぽどこっちが気を強く持たない限り苛立ちに呑まれてしまう。だから呑まれたくないなら、文字通り「心が強く」ないといけない。
 
 メンタルが強いなんてよく言うけど、それは「どんなときも諦めない!ネバーギブアップ!」と自分を奮い立たせるようなことじゃない。誰といても自分の心を守れるってことだ。相手の強い情動に左右されない。誰かの緊張やいらだちに呑み込まれない。自分のまとっている雰囲気を守れる。そういうこと。
 
 そうして誰かの気持ちをおしはかりたいときは、自分の心の強度を弱めるほうがいい。強い匂いを発している人は、周囲の香りに鈍感になるものだ。だから誰かの気持ちや雰囲気に寄り添いたいときは、まず自分の感情を薄めてみる。こっちが強い不安や怒りでいっぱいになっていたら、他人の心は何も伝わってこない。
 
 「心」っていうのは、見えない神秘的なものというより、そこらへんに漂っているもの。だからちょっと「鼻が利く」人が、占いみたいな形で他人の心を当てたって何も不思議じゃない。心と物質は、言うほど離れてなくてよく似ている。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。