単純なことを言うために
「私」はたった一人しかいない、誰もがそう信じている。たった一人しかいないから、身分証明書を作って特定することができる。あなたはどこどこに住んでいて、氏名はこれ、性別はこれ、生年月日はいついつ、そうやって特定される一人。だけどそれは、人を見るやり方のひとつに過ぎない。
フランスの哲学者、フーコーは「身分を特定する」思想を忌み嫌った人だった。「あなたはこういう人です」と身元を特定することは「人間はいつも変わらず『その人自身』である」という幻想に基づいている。本当は、一人の人間の内には「いろんな私」がいる。文章を書くときの私、親といるときの私、健康診断で医者と向かい合っているときの私。そのすべてが自分だけれど、どれも自分そのものではない。どれも私の分身だけれど、どれも私の本体じゃない。「私」はいつも散らばっていて、「この一人」と特定できるようなものじゃない。
フーコーは言う。
私が誰であるかを尋ねないでください。私にいつも同じままでいろと言わないでください。そのように尋ねたり、言ったりするのは戸籍の道徳、われわれの身分証明書を支配するような道徳です。文章を書くときは、そんな道徳から自由であるべきでしょう。
──『知の考古学』
そんな風に書く彼だから、自分についてもわかりやすい説明は拒んだ。「私は○○な人間です」と言う代わりに、自らの分身とも言うべき文章をたくさん書いた。どのテキストも微妙に異なっていて、どれがオリジナルなわけでもなく、どれがコピーだというわけでもない。フーコーの書くテキストはどれもが、彼の長い、そして終わらない自己紹介だ。
私たちはいろんなところで、自分について説明を求められる。初対面のときの「名前はなんて言うの?」から始まって、趣味や経歴や、そのほか他人が知りたそうなことを、わかりやすいストーリーにまとめて話す。「こういうきっかけがあって、これが好きになったんです」とか「こんな背景があって、この会社に入ったんです」とか。みんな、それでとりあえずは納得した気になる。「この人はこういう人だ」と。
でも、それがどこまで本当なのかなあ……と思う。いまの自分はどうだろう。哲学科の大学院にいるのはどうして?と聞かれたら、なんて言うだろう。「学部を出た後も哲学の勉強を続けたかったので、ここの大学院に進学しました」とあっさり答えることはできるけれど、それがすべてじゃない。
キャンパスが好きだったからかもしれない。先生方が好きだからかもしれない。他の大学院が嫌だったのかもしれない。ただ単に就職が嫌で、勉強を続けるほうがいいと思ったのかもしれない。あるいはある日、吹いている風が気持ちよかったから、唐突に「大学院に行こう」と思ったとか。それもありえない話じゃない。忘れているだけって可能性もある。
本当の理由なんて、自分だってわかってない。私が自分について「こういう者です」というとき、それがどこまで本当かいつも自信がない。あるものを「好きです」と言った翌日に、嫌いになっていることだってあるかもしれない。だからこのnoteでも、「私はこういう人です」と特定するような、わかりやすい自己紹介を書くことができずにいる。
フーコーは「自分が何者であるか」の問いに、数多くのテキストで応えてみせた。自分は時にはこういうことを考え、また別の場合にはこんな主張をし、ある時には何も語らない人間であると。自分がいつも変わらない自分でいられるという「自己同一性」を信じず、「男性」とか「ゲイ」とかいう属性で自分を語ることを拒んだ。人間をラベリングする便利な言葉を使わないでいた。自分は自分でしかないという、単純な事実を言うために。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。