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【小説】詐欺師の娘たち-1

 テーブルマナーを知っている。貧民街で育ったくせに。
 詐欺師だった父親が教えてくれたのだ。
 育ちがよく見えるぞ、お前は世界一の貴婦人だ。

 ナイフとフォークを右斜めに揃えて置く、私の頬を父の両手が包み込む。期待に応えられたときはいつでも嬉しい。遠い外国の血が混じった父親の目は緑で、この界隈にはおおよそ似つかわしくなかった。
 この界隈。

 狭くて古い木造のアパート、そこが父と私のお城だった。大家のおばあさんは出入口の隣に寝泊りしていて、いつもぼんやりした諦めが漂い、かつて若かったことがあるなんて信じられないほど、老いは彼女に馴染んでいた。しわくちゃの顔、うろんな目は妖怪のようで、同じ人間だと思えた試しがなかった。
 そんなおばあさんでも、父と話すときはわずかに乙女のような羞恥が顔をよぎる。長身の父を見上げるときに、彼女は父の隣にいる娘の存在など忘れているように見えた。

「世界一のパパ」
 私がそう口にするたびにニコリと笑う、その人の肌の色は異国の血を引きずる。私を娘だというのは無理があったんじゃないだろうか。名前も知らない中国人女が置き去りにした子ども、それをよく娘として育てようって気になったものだ。
 他の住人と違って高級そうなスーツに身を包み、物腰柔らかな父には「家族」が必要だった。淋しかったからではない。彼は「娘」が欲しかったのだ、どうしても。髪が長く躾けがよく、可憐なドレスを着せられた、可愛らしい娘の存在が。

 考えてみてほしい。1人の男がいるときと、その男が娘といるとき、あなたはどちらを警戒するか。後者の2人は親子でしかないような睦まじい雰囲気で笑い合っているとしたら。父親の方は髪も目も東アジアのそれではなく、娘のほうは黒髪に黒い目で肌色の肌をしているとしたら。もしあなたが生まれ育ったのが、あの貧しい街から電車で一本の──と言っても始点と終点の距離にある──都会の人だったら、すぐに事情を察したはずだ。この子の母親は水商売か何かに従事していた過去があり、男を捕まえて結婚して出産し、そしてなんらかの理由でもう「いない」と。故国に高跳びしたのかもしれないし、単に亡くなったのかも、あるいは子どもを捨てて他の男と逃げたのかもしれない。父親は娘を、その忘れ形見のように愛しかわいがっている。そういうストーリーが一瞬で浮かぶ。そうしてあなたは彼への警戒心を解く。愛した女を失った気の毒な男、娘と生きることを選んだ父親。娘を見る目はいつも愛おしそうで、演技でなければこうはできないと思うほど、それを見る他人に2人の関係性を訴える信号を放っている。

 女たちはみんな騙された。父がそのつどなんと言って人を欺いていたのか知らない。とにかく私はドレスの裾を持ち上げて笑顔を作り、膝をちょこんと折り曲げて「ボンジュール、マダム。ヴザレビアン?」と言うのが決まりだった。その度に彼女たちの顔がほころぶので、私はそれを悪いと思わない。どうせすぐに会わなくなる女性たちだと知っているから、短い間だけでも気持ちよくなって欲しい。束の間の儚い夢すらも美しくなかったら、人はどうやって生きていけるだろう?
 未婚女性の肩身がいまよりずっと狭かったその場所で、父の仕事は結婚詐欺師だった。だいたいターゲットは40代。生涯独り身と諦めていたり、このまま愛されず死んでいくのかと、焦りと孤独で一杯になっている女性の前に父は現れた。かつての国籍はフランス、愛した女性と生き別れ、1人で娘を育てている淋しい男性として。

 たぶんダンサー崩れだったのだと思う。彼はバレエを愛していて、どうにか拾ってきたテレビで画質の悪い映像を見ていた。レンタルビデオ屋ででも借りたのか、誰かから借りてきてもらったのか。画面の中の舞台はいつも日本以外のどこかで、私は彼と同じ肌の色の人々が両手を振り回し、飛び上がり、華やかな衣装を見せつけるように踊り歩くのを一緒に見ていた。
 白鳥の湖、ドン・キホーテ、ジゼル、ラ・フィーユ・マル・ガルデ、コッペリアにシルフィード、ロミオとジュリエットにペトルーシュカ……。彼はビデオのパッケージを見なくても作品名を当てられた。話を内容を聞かせてくれるときには画面に釘付けで、私がどんなに怪訝そうな顔をしているかずっと気づかないままだった。「娘」も同じように好きで見ていると信じ込んでいたのだろう。
 実際わたしにはよくわからなかった。「ジゼル」に出てくる妖精たちの気持ちが一番わからなかった。生きている間に男に酷い目に遭わされた女たちが死後、化けて出て、男と見るや踊りに誘い込み、死ぬまで踊らせる……。あれは一体どういう話なんだろう。日本語には「笑い死ぬ」とか「褒め殺す」という表現はあっても「踊り死ぬ」「踊り殺す」はない。なんだって人がダンスの果てに死んだりするだろう。
 少なくとも私が理解したのは、彼がそういう文化圏から来たということだった。そこでは、踊りで人を殺したり死んだりするらしい。父はよく、私に赤い靴を履かせてくれた。

 女性と父と私と、三人そろって食事をするときは常にナイフとフォークが必要だった。私に箸の使い方を教えられる人間は周りにいなかったから。そのせいで生まれてからしばらくの間、箸も鉛筆も綺麗に持てなかった。人差し指と中指をグッと折り曲げ、その中に箸の一本を通す。残りの指でもう一本を支え、不格好なままどうにかご飯にありつく。そうやって食べた。周囲の住人は食事作法などないも同然で、正しい持ち方を見る機会がない。仮に見てもそれが正しいかどうかわからない。恐らく父も同じだった。彼がわかるのは、正しいナイフとフォークの扱いであり、スープ皿の傾け方であり、ティーカップを持つ指の揃え方であって、それ以外を習得するリソースは与えられなかった。コンビニで貰うプラスチック・カトラリーと弁当用の容器が、日頃の食器だった。

 器の話をしたなら、服の話もしなければならない。文化ってそういうものだ。家に帰ってくるなり私たちは服を脱いだ。汚すわけにいかなかったからだ。よそ行きのドレスやスーツが何着もあろうはずがない。クリーニングに出すにはお金がかかるし、かといって自分でどうにか洗う術もないとしたら、一滴の汚泥もつかないように神経質になるしかない。あくせくしなければならないのが辛くはあったけれど、それが人生なんだと私は悟る。与えられたものしか選択肢がなく、自分で好きなものを作るとか選ぶとかいう発想がそもそも断たれていて、とにかく金をかけないのがよいことなのだと。だから欲しいものなんてなかった。そんな欲求を持つこと自体ありえない。人は与えられたもので生きていくべきであり、幸せになろうとする人間はすべて強欲で罪深い。そして幸せを欲しない人間は、他人に騙されることなどない。

 だから詐欺に遭う女たちに、それほど同情はしなかった。彼女たちが父から騙し取られた金は、すなわち夢の値段。酒に酔うのもタダじゃない世の中、上等な夢にはそれなりの対価を支払うのが筋というもの。なぜか神様を信じていた私は、よく空想の中のその人と会話した。
 神さま、どうしてパパが悪人てことになるの?あの人たちはみんな自分でそれがいいって言ってパパにお金を渡して、私たちは嘘はついたかもしれないけど、それは冷たい現実よりずっと温かくて素敵だった。それでどうして私たちが悪いことになるの?私たちは温かい。私たちは美しい。
 空想の中の神様は答えた。
 女の人たちの目を見てごらん。地獄に行ったら戻っておいで。

(続)

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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。