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哲学ノート① レヴィナスと怠惰
12月、哲学月間にします。アドヴェンドカレンダーを毎日めくるみたいに読んでいただけたら。水曜日は翻訳マガジン『父への手紙』の更新をしていきます。どうぞよしなに……。
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「怠惰」は、あまり哲学のテーマにはならない。
「正義」とか「幸福」とか「道徳」「善」は大人気だけど、あの「かったるい」感情をわざわざ哲学の俎上に乗せる人は珍しい。それをやったのがエマニュエル・レヴィナス。
少しレヴィナス本人について紹介すると、こんな感じ。
哲学した言語→フランス語
家系→ユダヤ系
雑な来歴→1906年、リトアニア生まれ。
帝政ロシアの端っこで「東方ユダヤ人」として生まれる。ヘブライ語聖書、ロシア文学と共に育つ。その後、フランスに移住。
第二次世界大戦でドイツの捕虜となり強制収容所は免れる。リトアニアに残った家族は誰も生き残らなかった。1995年没。
その人が『実存から実存者へ』という本を書いていて、いまこれを読んでいる。その中に出てくるのが「怠惰」。「あれをやらなきゃ」と思いながら実行に移さない、ずるずるだらだらとしたあの感覚。
あれって一体なんなんだろう。ただ単に疲れているんだろうか。でも、体はまったく健康でよく動くのに、それとは無関係に体が動かないことってある。なんか気が重くてやりたくない、体を動かせば終わるのはわかってるけど、気怠くて踏み切れない。
それは要は、生きていることがもう面倒くさいんじゃないだろうか。自分が現実にそこにいて生きているということ自体が、もう投げ出したいくらいの重荷になっている。「怠惰」って、そういうことなのかもしれない。
レヴィナスは言う。
行為を前にしての後ずさりとしての怠惰は、実存を前にしてためらい、無精で実存したがらないということなのだ。(※1)
「実存」というのは「現実存在」の略だ。そこにある、手も足もある、リアルに存在してる、それが「実存」。肉体を持って生身の人間が生きている、そういうことを示すのに使う。
怠惰は現実存在したがらない。リアルにそこに生身で存在するのがもう嫌だと言う。生活していれば、どうしても茶番劇を演じなきゃならない──意味もないのに書類に判子を押すとか、人に会ったらとりあえず挨拶をするとか──けれど、そういうのが一切合切、もうめんどくさいと思ってしまう。「お芝居に巻き込まないでくれる?私ここで寝てるから」なんていう言い訳は通用しなくて、誰もが世間を生きる羽目になる。
怠惰は、実存という、「みんなで演じる茶番劇」を、自分なしで演じてくれと放り出す。しかし、このように輪をかけた否定でありながら、それでもやはり怠惰は存在の遂行である。(※2)
うん、生きて実存しているのがどんなに重荷でも、それ自体が生きて存在していることの一部なわけで、人は生きている限り、存在することから逃れられない。面倒だ。時々いやになる。でもしょうがない。
(続く)
※1:エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳、ちくま学芸文庫、2019、51頁
※2:同上、54頁
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。