弱い私と向き合うことは

最近、過去と向き合う機会が増えた。むかし苦しかったことを思い出していると、本当に辛くなることがある。いま自分が嫌っているものは、まさしく過去の自分の姿だったりして、救いようがない気持ちになる。

私は、強いこととか賢いことを良いことだと信じて生きてきて、そうなれない人を批判してきたかもしれない。というか、してきたと思う。ひどい境遇に甘んじる人に対して「だったら逃げたらいいでしょ?新しい場所を自力で探しなさいよ」と突き放したり、弱い人に対して「弱いんだから、いい思いができなくて当たり前でしょ?受け入れなさいよ」という態度を取ったりしてきた。

でもそれは、自分がひどい境遇の中で、強くなければ賢くなければ、生き残れないような思いに晒されてきたからだ。子どもの頃から家庭が不安定で、自分の身を守ることに必死だった。そのためには、弱音なんて吐いていられなかったから、人一倍強さに憧れた。

その反動で、強くも賢くもないのに幸せになろうとする人間に対して、憎しみや嫉妬を持っているのだと思う。自分以上の努力をしていないのに幸運を掴む人を見ると、それだけで自分が全否定されているようで、惨めな気持ちの中に落ち込んでしまう。辛い。

本当はわかってるんだ。人はエネルギーが奪われると、ひどい場所から出て行くための気力すらなくなってしまうこと。「逃げたらいいでしょ」と安易に言えるはずがないこと。弱いからといって、自尊心を傷つけられていいはずがないこと。わかってるんだよ。

でも「弱くてもいい」と言ってしまうと、必死に生きていた過去の自分を否定するみたいで苦しいから、「弱者として扱われるのが嫌なら、強くなればいい」なんて、なんの役にも立たないことを言いそうになる。それって悪い選択肢だ。いつか必ずブーメランになって、自分に返ってくることがわかりきっている、ダメな選択肢。

だって、永遠に勝ち続ける人なんていない。いま強者の立場にいる人も、将来はどうなるかわからない。これだけ価値観が移り変わっていく社会だし、「資本主義の世界なら、資産さえ築けばアガリだ」と思っていたとしても、お金の価値そのものが変わるかもしれない。

あるいはもっと具体的に、いまは知力に溢れていて健康で、正しい判断が下せる人も、老化からは逃れられない。頭がどんなに働いたって、体がついていかない日が来るだろうし、体は健康でも、頭が働かなくなっている可能性だってある。誰もがいつかは弱者になる。

弱さをもっと柔軟に、受け入れられる人間でありたいと思う。自分のためにも、他人のためにも。



本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。