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呪う日本史

「呪う」は「まじなう」とも「のろう」とも読む。非物理的な方法で、物や人に影響を及ぼそうとする行為を指す。『まじないの文化史』にそう書かれていた。災いを避けるべく神仏の加護に頼るのが「まじなう」。他人に災厄を祈るのが「のろう」。後者のほうが一般的なので、ここでは「呪」の字は「のろう」意味で使う。

古代日本では(そして現代でもいくつかの国で)人を呪う行為は法律で禁止されている。「他者に災いあれ」と望むのはよろしくない。その感覚はいまでも共有されているが、昔は法で禁じるレベルだった。

呪いの方法にはいろいろバリエーションがあったらしい。道具を使うものから呪文まで。呪文の中に、決め台詞として「急々如律令」という言葉があった。なんとなく字面から判断するに「急げ急げ、法律のように」という意味なんだろう。これは実際、古代中国で政務に使われたフレーズで「律令のごとくすみやかに命令を実行せよ」と言っている。中国政治の決まり文句は、日本で呪いの結び言葉となったそうだ。

それにしても、呪いをこんなに熱心に研究する人たちがいるなんて……。学問の自由の幅広さよ、と思いながら読み進める。ページをめくるごとに「平安時代呪詛事件ファイル」「寛弘六年の呪詛事件」「呪いは都から」などなど、誰も教えてくれなかった日本史が浮かび上がり、新しい教科書を読んでいる気分だ。

呪いは法律で禁止されていた、とはすなわち、呪った人間は罰されるということだ。しかし呪術なんていうのは、やったかやらないかはっきりしない場合が多い。公衆の面前で声高に「これから○○さんを呪います!」なんてやる人はまずいない。

だから政敵潰しに最適の理由となった。魔女狩りみたいなものだろうか、「あの人、時の権力者の○○さんを呪ってました~!」と指差されたらもうおしまい、その時点で犯罪者認定を受けてしまう。人に不幸を祈るのはよくないけれど、法律で禁止すると悪用する輩が後を絶たない。古代日本の権力闘争も、なかなかハードだなあと思う。

古代の人々がどこまで、呪術のパワーを信じていたか知らない。でも単に「道徳的に悪いから」以上に「敵を失脚させるのに使いやすい理由だから」、名目上のろいが禁止されていた可能性もある。古代人が常に非科学的だったわけじゃなく、呪術を禁ずる合理的な理由があったんだろう。

自分が呪いを信じるか?と言われたら、少しは信じていると答える。人の悪意っていうのは伝わりやすい。誰かが自分に不幸や災いを望んでいれば、それとなく伝わってくることもある。そんなの誰だっていい気分にはならない。人の悪意は、その程度には相手への影響力を持っている。

もっとも「藁人形に釘を刺したら本当に利くのか」とか、そういうレベルは知らない。あくまで「人の持つ嫌な想念は相手に伝わりやすい、それはいい影響を及ぼさない」程度の信仰だ。

世の中には不思議なこともあるもので、たまに「足が痛いと思っていたら、占い師に『○○さんに呪われてる』って言われた。その場で祈ってもらったらよくなった」くらいの話を聞く。『まじないの文化史』を読んだあとだと「なら根拠がなくても「私○○さんに呪われてるの!」って言いふらせば、政敵に対するダメージになるんじゃ……?」などとよこしまな考えが湧いてしまう。いまの日本だと、言っている側が問題視されるか。

この本は成立過程がそもそも面白い。新潟の歴史博物館が地元密着型の企画展をおこなったところSNSで拡散され話題となり、日頃は年配の人々が訪れる場所に、ゴスロリ姿の若い人が来るのが見られた。その人気の企画展が本になった。シュールな絵柄も見どころの、今週の一冊。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。