いまでも思い出してしまうことと

「昔あった嫌なこと、嫌な人を今でも思い出してしまう。みんな私を忘れていてくれたらいいのに」
「俺はそうは思わない。思い出してほしくない……か、でなければちゃんと思い出して振り返って『あんなひどい言葉をかけていたんだ、ひどいことをしていたんだ』って反省してほしい。もっともあいつらがそれをやるとは思わないけど。大人になった今でも」

いまでも覚えている悲しい出来事とどう向き合うか。そんな話をしながら、その解決法は人それぞれなのだと知る。

始まりは、自分のした「中学校最初の頃にされた、些細だけど長く続いた嫌がらせを思い出す。当時の自分のことが好きになれない」という話だった。何か面倒なことがあると、悪ふざけのノリですべてを押し付けられる、そんな出来事が続いたときがあった。
「うまく逃げればよかったし、それがダメなら助けてって言えばよかった。一人で戦った自分がバカみたいで忘れたい。もっと言えば、当事者みんなに自分を忘れてほしい」

自分がそう言うと相手は、そうは思わない、と返してきたのだった。もちろん細かい境遇は違うだろうけど、嫌な思いなら自分もさせられてきた。あいつらに反省してほしいね。あいつらが自発的に謝ってくることなんてまずないだろうけど、振り返って「悪いことをした」って思ってほしい。大人になった今の連中が少しでも変わっているならね。

実際の台詞は微妙に違ったのだろうけど、概ねそういう言葉を使っていた。「あいつら」という複数の二人称。大人になったなら振り返って反省してほしいけど、そんなことはありえないだろうという、期待と諦めの交錯した感情。私のほうはと言えば「みんな当時のことを忘れてくれたらいい」と、これもまた無茶な希望だ。ありえないことだと知っていて望んでしまう物事と、どうやって向き合っていったらいいんだろう。

大抵の人は、それを上手に忘れる。忘れていなくても処理する。終わったことだ、とか、指一本失ったわけじゃない、とか。それは事実だ。自分や相手が中学生だったのなんて遠い日の話だし、お互いに五体満足で生きている。でもそれがなんだろう?傷は外側にだけつくわけじゃない。

大抵のことは取り返しがつかない。起きてしまったものはどうしようもなくて、運よく不幸な出来事を起こした張本人を見つけ出したところで、彼らはそれを悪いと思っていないかもしれない。あるいはとっくの昔に、自分が何をしたか忘れているのかもしれない。やられた側が今でも覚えている一方で。

埋葬できない忘れられない感情は、どうせなら言葉にするのがいいと思った。話すと泣いてしまいそうだし、いまでも自分は意地っ張りで、人前で涙を見せるのは嫌だけど、それでも抱え込むよりはずっとマシだった。どうせ自粛で外に出られないなら、内面を洗いざらい、どこかに吐き出してしまうチャンスなのかもしれない。そんなことを思った。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。