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大きな不幸のただなかで

 大きな不幸は目に見えない。目の前の小さな不幸なら気づくけれど、自分を取り囲むくらい大きくなってしまうと、もはやそれを自覚することができない。
 
 いつだったか大学の授業で、担当の先生がこんなことを言った。

「いまはとてもいい時代なんです、絶対。だって江戸時代なんかには身分制度があったわけでしょ」

 士農工商みたいな、固定された身分がないだけ私たちは幸せなのだ。現代を生きる我々は恵まれている。ただ科学技術が発展した結果、江戸時代にはなかった苦しみが生まれていますね……話はそう続いていった。
 
 身分の差がないのはいいことだ。私たちはそう聞かされて育つ。平等は美しく、格差は悪い。だから誰もが、格差をなくすためにはどうしたらいいか議論する。教育の、貧富の、階級の、能力の差を、どうにか許容できるくらい縮めようとする。
 
 だけどこのスタンスは、果たしてどこまで正しいんだろう。
 
 身分制がいいとは言わない。就きたい職業に就けなかったとか、身分ゆえに結婚を諦めねばならなかったとか、悲劇は数多かっただろう。一方で、あらかじめ自分の限界を理解し、何が期待されているかはっきりわかる人生は楽でもあったはずだ。
 
 いまみたいに「あなたの努力次第でなんにでもなれるのよ、可能性は無限なのよ。その代わり人生でなにが起こってもお前の責任ね」と言われる世界と、どちらがいいのだろう。
 そんな風に言われるにも関わらず、実のところ生まれや育ちでいろんなものが決まってしまう世界と、どちらがいいって言うんだろう。
 
 江戸時代よりいまのほうが絶対いいのか?「よい」と断言できるほど、自由や平等の美しさを信じてない。それは一見自由に見えるだけの、より巧妙に作られた身分制じゃないか。

 「あなたの努力次第でなんでもできるのよ」と学校の先生たちは言った。裏返せば「劣った人生はあなたの自己責任」になる。でも結局のところ、人には常に何らかの差異がある。

 恵まれた家庭で育つ人もいれば、劣悪な環境を強いられる人もいる。そしてどちらも「自由に生きていい」と言われる。恵まれた人とそうでない人がお互い自由に生きたら、差は生まれたときよりもっと開くんじゃないでしょうか。
 
 なんてことをいまここで書いても、先生には届かないだろう。
 
 いま『格差という虚構』を読んでいる。中に次の文章が出てきたので、ふとかつての授業を思い出してしまった。

 貧困に苦しむぐらいなら、底辺においやられても富裕な社会で生活する方が幸せだとは、人の心の弱さがわからない者の言い草だ。格差の完全な解消は無理としても少しでも減る方がよい、士農工商と身分が分かれて固定する社会に比べれば、民主主義社会のほうがましだ。我々はそう信じる。だが、それは人間心理を知らないゆえの楽観論だ。

小坂井敏晶『格差という虚構』筑摩書房、2021年、201頁。

 なぜなら人は、手に入りそうなものがそれでも手に入らないときに最も苛立ち、不平を述べ、絶望するものだからだ。生まれつききっぱりと「あれは自分には届かない」とわかっていたら、絶たれる望みは始めからない。
 
 だから皮肉ではあるけれど、格差の小さい世界ほど不公平感が増す。あいつの持っている物をなんで俺は持ってないんだ、生まれつき何もかも違ってるならまだ話はわかる。でも私たちは互いにこんなに似ているじゃないか?
 
 「手が届く」と思うがゆえの不幸。届く届くと思わされながら、本当は届かないようになっているのかもしれない。なんでも努力次第よと言われた人々は、手に入らないなら自分が悪い、社会は悪くないと信じ、自信を失って生きる。
 
 身分差の解消された社会には、こういう不幸がある。外的条件さえ整えれば即幸せになるほど、人間は単純じゃない。
 
……と私は思います、先生。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。