「お客様」になって考えること

お世話になっている靴屋の主人は、年の頃は四十代、接客業を続けている人らしく、片時も崩れない笑顔を誇る男性である。この人が面白い。

例えば、初めて紐靴を履くと決めたとき。彼は
「本当にいいですか~?紐靴、メンドくさいですよ?」
と、こちらの決心が揺るぎそうな質問をしてくる。ここで「メンドくさいから止めます」と答えるか否かで、意志を試されるのを感じた。そこには「どうせ靴を履くなら納得して履いてほしい」という気持ちが現れていて「紐靴めっちゃおすすめですよ!」と言う店員とは、また次元の違う、靴への愛が嗅ぎ取れる。

靴の修理を頼んだときも
「あーもうコレ、ボロボロですよー。ほら、布地の部分とか破れちゃって。どうします?」
と言われた。ネガティブなことを言う、その背景には「僕、この靴なおせますよ。でもあなたにその気がなかったら直しても仕方ないし、どうします?」という裏のメッセージが隠れている。

やっぱり「意志を試されている……」と思った。ここで「じゃあもう捨てます」と答えたら、修理はしてもらえないのである。もちろん「修理、お願いします」と応じる。すると間髪入れず「お金かかりますよ(タダじゃないですよ)」と返されるが、これも「修理という技術は当然、対価が必要なのよ」という雰囲気が滲んでいて、とてもいい。

彼がそういう接客をするようになった背景には
「紐靴にしてみたけど、結ぶのが面倒だったから捨てるわ」とか
「修理にお金がかかるの?なんで?」とか
「ボロボロの靴なら、修理にお金をかけるのがもったいないし、新しいのを買うね」とか、そういうことを言う人々がいたのかもしれない。だから敢えて「面倒ですけど履きますか」「お金がかかりますけどいいですか」と訊くんだろうな、と、その過程に思いを馳せる。

店は客を選べないが、ふるいにかけることはできる。「自分の作る物を本当に欲していない人を相手にしても、お互いに時間に無駄」という彼のスタンスは「うちの商品を買ってください!お客様は神様です!」という広告や接客に飼い慣らされた自分にとって、新鮮に見える。

当然のことながら、お客様は神様ではない。店のサービスを受けようと思えば、それに相応しい振る舞いを求められる。だけど、それは「ひどい接客をされるのは、される客のほうが悪い」ということではなく、お互いが気持ちよくやり取りできる落としどころを見つけようということだ。修理代が惜しいんだったら、修理を頼まないほうがいい。嫌味ではなく、それだけの話。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。