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「近代」のこと

ずっと前に書いた論文に「言葉の定義が甘い」と指摘をもらったことがある。単語の意味に幅があるのは仕方ないけれど、それにしても意味するところが広すぎる。もうちょっと詰めなさい、と言われた。その言葉というのが「近代」。

当時は荒っぽい理解で「産業革命が起きたあと、機械化が進んで便利になっていく時代。だいたい明治以降」くらいのニュアンスで使っていた。が、辞書で調べると広義ではルネサンス以降の時代を指すらしい。だいぶイメージが違う。日本の歴史区分では明治維新から第二次世界大戦終結までを指す(旺文社 国語辞典)。はい。いま読んでいる『近代の呪い』も「とりあえず徳川幕府の時代は近代じゃないだろう」という感じで進んでいく。

「人権」とか「平等」とかいう概念は、近代の生んだものだと言われがちだ。「現代は格差社会とか言われているけど、なら江戸時代ならよかったのか?そうじゃない。その頃には士農工商の身分制度があったわけでしょう」。授業でそう言った先生もいた。昔は平等じゃなかった、今も問題はあるけれど昔ほど悪くない。そう考える人にとって、近代の響きは明るく美しい。

でもどうだろう。それ以前の人々は、そんなに平等に無頓着だったのだろうか?低い身分に生まれれば一生、頭を下げていなければならず、それに不満を抱くこともなかったのだろうか?人権なんて概念はないから、どんな扱いをされても黙っていたのだろうか?そんなことはない。『近代の呪い』によれば、武士は一応、統治階級であるものの、庶民のほうも負けてはいない。

武士は為政者つまり治者でありますから、他身分から一応尊敬はされますけれども、それでも一般庶民は武士に対してへへっとおそれ入っていたわけではなく、特に江戸の庶民には武士何するものぞという気概がみなぎっておりました。斬り捨て御免などとんでもないことであったのです。

言うほど身分の高低が意識されていたわけではなく、武士の横暴には庶民のほうが目を光らせていたのだろう。むしろ目下の人間に気を遣わなければならない風潮が強かったとのことで、西洋の人々にこれは理解できなかった、という描写もある。

武士の間では上級者が下級者に非常に気を遣ったものでした。これは召使いや女中に対しても同様で、西洋人の主婦は日本人の召使いを使ってみて、彼らが主人の言う通りにしないのにほとほと手を焼いています。主従関係において従者に主導権があるらしいことに、西洋人はみな奇異の念を抱いたのです。

現代のイメージだと、日本人って「従順でよく言うことを聞く」感があるのだけど、近代以前はそうでもなかったのだ。そういえば江戸絵画で、夫に馬乗りになって殴っている妻のイラストがあったっけ。日本史を勉強していても、一揆や強訴を起こしたり、ええじゃないかと踊り狂ってみたり、少しもおとなしくない。彼らが身分制度をおいそれと受け入れて「庶民は庶民らしく生意気言いません」と生きていたわけもなく、政治を風刺する川柳を読み、発禁処分を受けながら創作した先人たちは枚挙にいとまがない。

だから「近代になってから人は素晴らしくなった、平等と人権を理解するようになった!」と考えるのは短絡的で、むしろ近代が失ったものについて考えるべきなんだろう。身分制度こそ廃止されたかもしれないけど、なら人々の差はなくなったのか?暗に存在する上下関係の中で、目上の人間の振舞い方が劣化してきていないか?あるいは、目下の立場となった人が必要以上に自分を卑下するようになっていないか?

近代、その定義は複雑だけど、昔と今を決定的に断絶させる一個の時代ではあって、これからも考える羽目になりそうだ。

引用:渡辺京二『近代の呪い』平凡社、2013年、134-135頁。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。