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選挙には行くよ

 選挙が近い。街頭演説の声が駅に響く。
 
 整った顔立ちに端正な声で話されると、それだけで正しいことを言っているように聞こえるから嫌だ。顔の良し悪しが人間の印象を左右するのは知られた話だが、音声とて負けてない。ボーカルや声優がモテるのはそのためだ。
 学歴詐称がバレたショーンKという芸能人がいたけど、あの人も顔と声だけで持ってたようなものだ。中身が薄くても、演出がうまければ話は聞いてもらえる。人は容姿の優れた人間を知的だと思い、正しいと信じる。
 演説上手な議員にうっかりほだされそうになりながら「でもちゃんと政策見ないとな……」と正気に戻って帰宅した。
 
 別に容姿のいい人間が憎いわけじゃない。人も動物の一種だから、繁殖に強そうな人間が美しいと呼ばれる。その本能に抗っても仕方ない。美男子や美人がみんな好きだ。正しいことを言うのは美しい人であってほしい。こういう感情は自分の中にもある。
 テレビ番組を作る人々はそれをよく知っているから、普及させたい思想は美人に言わせ、させたくない思想はそうでない人に言わせる。いいか悪いかは別として、そういうものだ。
 
 選挙になると「政策以外のところがどこまでものを言うのかな~」といつも気になる。議員の演出能力か、それとも毎朝、駅前に立ってビラ配りをしている人が強いのか。
 どちらも政策にはまったく関係ないのだけど、案外こういうところで勝負は決まっている気がする。
 自分も、政治思想はまったく違う党の立候補者がチラシを配りながら「おはようございます!ありがとうございます!お気をつけて!」と連呼しているのを見ると「こんなに頑張ってるなら投票しちゃおうかしら」なんて気持ちになってしまう。しないけど。
 
 手堅く票を取っていくのは、なんだかんだ言っても「その地域を歩いて挨拶して回った人」だ。人は自分のところまで来てくれた人を忘れない。ご立派な政策を並べながら一度も挨拶に来ない人より、足を運んでくれた人に情は湧く。
 
 なんか、結局そういうことなんだよな、と思う。
 
 前の東京都知事選のとき、母はテレビを見ながら、都民でもないのに当選者を当てていた。鳥越氏VS小池百合子の、一騎打ちと言われていた選挙だった。
「鳥越さんは何か勘違いしてるでしょう。革靴履いてる。革靴だよ?歩き回ろうって気がない。お高くとまってるときじゃないはずなのにね。小池さんはスニーカーだった。『選挙のときはいつもこれなんだ』って言ってて、勝つのはこの人だね」。
 結果、スニーカーが革靴を破り、都知事になった。
 
 選挙を動かすのは、大枠の政策や方針以上に、こういうところなのだ。どれだけ頭を下げて回ったか、有権者からどれだけ信頼できる人間だと思われたか。裏を返せば、そこをうまくやれる人なら、多少の方針のひどさは目をつぶってもらいやすい。
 もちろん多くの有権者も愚かではないから「あのひと頑張ってはいるけど、投票はしたくないんだよな」とか「演説はうまいけど、ダメだな」とか判断している。でもそうではない人も一定数いて、そのために番狂わせも起こる。
 
 民主主義って難しいなあ。小学校で思ったことが、大人になっても何回もよみがえる。
 それはすなわち人気投票であり、大衆による独裁である……との意見もわかる。流されやすい人たちに働きかければ、中身がなくてもうまいこと勝ててしまうシステム。
 いつだったか、テレビの前で支離滅裂なことを言いながら号泣し、悪い意味で話題になった男性議員がいた。あの人だって民主主義で選ばれたんだからなあ。衆愚政治と言えばその側面はある。
 
 それでも、一人や一党による独裁よりずっといいはずなんだ。そう思うから、とりあえず選挙には行く。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。