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生きていれば明日が

兄は明日で30歳になる。生きていればの話だ。実際には18歳のままで、高校の制服を着て快速列車に飛び込んだときから、ずっと時間が止まっている。

自殺なんてものはなんだって止めておいたほうがいい。特に電車を使うとどういうことになるか、私は遺族だから少しは知ってる。新聞に小さく「男子生徒がホームから転落」と書かれて、家族に電車のフロントガラスの請求が来る。あれは決して安くない。誰かがSNSに投稿する。大抵の人は悼んでくれるけど、それも一瞬だ。それからお葬式をやって──そのあとは、自殺以外の形で亡くなった人と何も変わるところがない。徐々に人の記憶から色褪せて消えていく。

死者の誕生日を祝うことについて考える。それはすごくグロテスクな行為なんだろうか。もう歳を取らない人。歳を取るどころか、年齢を重ねるための肉体さえもうこの世に持っていない人。彼に対して「誕生日おめでとう」というのは、狂気の沙汰なのだろうか。よくわからない。もうどこにもいない人に対して、祝いの言葉を述べるのは虚しすぎるから、自分はしない。

明日になれば、ひょっとしたら気が変わるかもしれない。ケーキを買ってきて、ろうそくを灯しながら、もういないその人と一緒に食べようと思うかもしれない。兄はショートケーキが好きだった。苺が乗ったシンプルなケーキ、最後に一緒に食べたのがいつだったかなんて、もうまったく思い出せない。

月並みな言い方になるけど、会いたい人には会っておいたほうがいい。どちらかが死んだらもう会えないから。あなたが生きていても、相手はわからないし、相手が生きていても、あなたがこの世にいなくなる可能性もある。不吉な話だけど事実だ。誰にだってその可能性はある。

自殺は止めておいたほうがいい。海に入って死んだとしても、誰かが探しに潜らなきゃならない場合もある。ビルの屋上から飛び降りたところで、地上に落下するまで何秒かある。絶対その間に後悔するだろう。睡眠薬は過剰服用しても高確率で生き残る。それらを味わうくらいなら、普通に生きて呼吸してるほうがずっと楽だ。

これを読んでいる人の中にも、明日が誕生日の人はいるだろう。おめでとう、と言わせてほしい。少なくともあなたは生き残った。何歳になるかわからないけれど、その年齢になるまでサバイバルした、そのことを素直に私は祝いたい。それが見ず知らずの誰かであったとしても。

兄の誕生日は、きっと祝わないまま終わるだろう。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。