一歳おめでとう

友人が出産してから一年になる。一歳になるってどういうことなんだろう、ハイハイしているくらいだろうか、それともつかまり立ち?母乳って、子どもが何歳になるまで出るんだろう。自分が子育てのことを何も知らないことに気づかされる。

その子は、とても明るい性格の子で、早く家庭を築きたいと言っていたので、夢が叶ったというところなのだと思う。リーダー格の元気な女の子、クラスに1人はいるであろう、声が大きく存在感があり、顔立ちもはっきりしていて……みたいな、そんな人だ。

本当はもっと早くに子どもが欲しかったらしいけれど、いろいろあって、いま最初の子が一歳。妊娠時から逐一、報告を聞いている身としては、他人の子どもとは言えなんとなく気になる。いい子に育つかなあ、とか、栄養状態はどうなのかあ、とか。

これが母親だったら、何年後には保育園に入れなきゃとか、国や地域からの補助はいくらなのかとか、現実的なことをたくさん考えなければならないだろうから、本当に責任のない立場から思うことでしかない。この距離感は変な感じだ。自分が関わっているわけではないけれど、なぜか遠くからその子を見ていて、なんとなく成長が気になるっていう……。まして向こうは私のことを知らないのだから、完全に片思い状態だ。

友人のラインのアイコンは、その子どもの写真になっていて、成長に合わせて時々変わる。生まれて間もないの写真は、もうちょっと髪の毛の少なかったっけ、と思いながら見ている。母親の彼女に似て、目の大きい女の子。娘ちゃんのほうは、私が「おお遺伝だ」と感じながら自分の写真を見ているなんて、全然思わないんだろうな。

自分もまた、こういう風にして育てられたのかもしれない。あくまで想像でしかないけれど、例えば年賀状に自分の写真が印刷されて配られたのを見て、いまの私と同じように、その顔に両親の面影を感じた人がいたかもしれない。その人もまた、まったく自分の存在を悟られない中で「元気に育っているのかな……」と思いながら、私のことを考えてくれた可能性はある。もちろん、そんな「誰か」を探し出そうという気はないし、絶対にいたという保証もない。

普段はこんなこと考えないのに「その年齢の頃の自分を、周りの大人がどう見ていたか」に思いを馳せるのは、やっぱり身近な人が母親になったからでしかない。出産って大きいことなんだな、と思う。両親や親族だけでなく、遠く離れた自分にまで、いろいろなことを考えさせる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。