これは社会的なニュース

 「洗い物が面倒」という理由でしばらく肉を断っていたら、ついに立ちくらみを起こすようになった。原因が食生活と決まったわけではないけど、さりとて他に理由もみあたらない。今日の夕飯は、刺身と豚肉とゆで野菜になった。
 
 そんな個人的なニュースは歴史の教科書には絶対に載らない。載るものと言えばなにか。
 
 未来から2023年を振り返れば、まちがいなくAI元年だろう。この分野は文字通り日進月歩で(この言葉のまったく正しい使い方だ)、周囲からは「論文が出されても、そのころには内容が古くなっている」「それだけ変化のスピードが速い」と声が上がる。
 
 SNSを見ていたら、すでにAI生成によるグラビアモデルの写真集が発売されていた。実在しないモデルの写真集。こう書くとなんだかSFっぽい。これが現実なんだからすごい。まだ今年も4分の1が終わったばかりで、まだまだ前半戦なんだけど、これからどうなるんだろうな。
 
 もっともAIによるイラストや、リアルな人間にしか見えない画像は、どこか「最大公約数」みたいな趣きがある。誰もがなんとなくきれいだっていう絵柄、誰もが美人だと言う容貌。美しい外見には欠点がなく、欠点がないものには個性がない。どれも同じに見える。
 
 人間だって、美容整形で目指す顔はみんな似ていたりするけど、しょせんは自然界の生きものなので限界がある。持って生まれた顔や骨格によって、なれる姿は違う。それがいいのか悪いのかはわからない。でも「持って生まれた限界」が、個性を作り出すのもまた確かだ。
 
 いまのところAIは肉体を持っていないので、パリコレクションでランウェイを歩いているようなモデルはまだ仕事がある。写真で撮られるのをメインとしていたモデルは、すでに職業を奪われつつあるわけで、社会の変化が速い。
 
 イーロン・マスクも、この変化のスピードに危機感を覚えてか、人工知能の開発停止を訴え始めた。これも最近のニュースのひとつだろう。報道によれば氏は「(AIは)リスクが管理可能であると確信される場合にのみ開発されるべき」と主張した。

 
 それってどうかなあ、と思う。ひとつには、あらゆるリスクを管理できるという発想はまちがいだ。絶対な安全や安心というのはどこにもない。常日頃、上がり降りしている駅の階段ひとつ取っても、リスクはいくらでも挙げられる。
 
 どこまでやれば「リスクが管理された」ということになり、どこからが「管理されていない」ことになるのか。ここを明言できない限り、発言の内容はふわっとしたものに留まる。いくつかの記事を読んだけれど、詳しいことは書いていなかった。
 
 他にもいろいろあるけど置いておく。ただ結構な数の人がAIに脅威を感じたのは理解できる。そのインパクトの大きさが未知数で、警戒すべきだという主張もわかる。だけど一度進んだものはそうやすやすと後戻りはできない。AIはだれもが共生するしかない、画面の中の隣人になるだろう。開発をやめろと言われた側がやめる気配もない。
 
 個人的には、チャットAIや生成された美人たちを見ていて「つまんないな」と思うところが多い。チャットでは優等生的な発言が多く、開発者の思想に縛られているAI。特定の個人にぶっ刺さるような個性的な外見は作れないAI。これが進化によって克服されたら、世の中がおもしろくなるだけなので普通にやってほしい。
 
 直近でChatGPTと交わした会話は「わたしの代わりにお金を稼いで」「無理です(意訳)」だった。これだけでもどれだけ使えない存在かわかろうというものだ。
 
 自分がいまいちAIに脅威を覚えないのは、ひとえに日常が続いているせいだ。少なくともまだ、わたしの日常には食い込んできていない。明日も建築現場に仕事に行く。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。