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和陶器のもろもろ

「今日あたり来るような気がしてたわ」
 雑貨屋の店主が関西の訛りで言う。
「さっき似た雰囲気の人が来ててん、そうかなと思ったら違とった」
「似た人いっぱいいるんですね」
「おらん。特殊なたぐいやわ」
 ばっさり切り捨てたあと、何がほしい?と聞く店主に私は、お皿を、と答える。
 
 自分のことは、他人のほうがよく知っている。自分では気ままに動いているつもりでも、他人からは「この人はそろそろこう動く」と予想されている。
 今日あたり来るつもりだったんですよ、なんでバレるんでしょうね。
 店主は適当にいくつかの皿を出してきたあと、中でも私が欲しいと思った物をピタリと当ててみせた。占い師でもこうはいかないだろ、と思いながら会計を済ませる。
 
 買った皿に貼られたラベルには「煮沸禁止」の文字が踊っていた。禁止なんですか、と訊くと店主は、メーカーの物やからね、と言う。本当なら、和陶器は始めに煮沸してから使わないといけない。でもそれをしない人が増えている。
 メーカーのように大量に器を扱うところは、多くの人のクレームに事前に対処しないといけない。煮沸する文化のない客を想定して器を作ればそうなる。
「皿に色が染みたとか、いろんなこと言う客がいるんや。……それが和陶器のよさなんやけどな」
 店主はぼそっとつぶやいた。
 
 それが和陶器のよさなのか。知らなかった。
 ふだん「醤油とかの色が染みちゃうなあ、洗い方が悪いのかな」と思いつつ使っていたけれど、あれはあれでいいのか。使い込んでいくと、その人の暮らしの色が着いていくみたいな、そういう思想だったのか和陶器。
 自分が特にクレームをつけないのは、和食器のなんたるかを知っているからではなく、ただ単に一人で使う皿だから気にしなかっただけだ。お客さんを呼んで料理を振舞っているような人なら、皿の着色が気になるのかもしれない。
 
 実家でもずいぶん陶器の皿は使っていたけど、色が染みるからいいって話は聞いたことがない。台所をつかさどっていた祖母が合理主義者だったから、そのへんに由来するのかもしれない。皿なんてものは、常に綺麗に新品に清潔に見えればよろしい。
 実家にある皿は常に釉薬のコーティングがかかり、色染みを防御していた。きちんと洗えば、いつまでも新品のようなほのかな白さを保ち続ける。思えばそれが祖母なりの美学だったのかもしれない。
 
 西と東の違いもある。店主の生まれは近畿、私の生まれは東北。食文化は東西で大きく異なる。食文化が異なれば、好まれる食器も違うだろう。

 念のため、「瀬戸物」で知られる瀬戸市の人に訊いたところ
「何十年も使って色がついたんならカッコいいけど、なんとも言えないな」
との答えが返ってくる。

「普通は表面に釉薬が塗られてるから色がつくってことはまずないけどね……。釉薬っていうのはガラス質なんだ、焼き物の表面をガラスで覆ってるんだよ。そこを通って色が付くってことはまずないね」
 素焼きに着色したのが綺麗かって言うと……そこは好みだね、とのことだった。
 
「瀬戸物って言っても、ここ数十年振るわない。最近の瀬戸には、もうバンバン外に出せるような安い土はないんだ。瀬戸で取れるいい粘土は、芸術家あたりは喜ぶけど、普通に作ってる人は誰も喜ばないね。高くて買えないから」
 土にも事情があるらしいことを悟る。
 
 買った器が、どこの土で作られたものか知らない。店主は美濃焼だと言っていた気がするけど確かめてこなかった。
 皿を見ながら、おまえ美濃の土だったのか……と思う。原材料をこんな風に気にすることはあまりないから、それだけでもいい体験になった。器は小ぶりでやや深めに作られていて、今日はほうれん草のソテーを入れて食べる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。