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意味でゆたかになる世界

 「世界は意味であふれかえっている」。

 人は何かを見たり聞いたりすると、なんらか意味付けをしないではいられない。私たちはいつも何をやっても──何もやっていないときでも「立っている」とか「座っている」とか「休んでいる」と言われるわけで、何かを指し示すことから逃れられない。

 いつも何かを意味していて、いつも何かを意味づけている。

 

 人によって世界はこんなに違って見えるのか、と驚くことがある。同じものを見ていて、なんでこんなに発想が分かれるんだろう、って。

 人の数だけ意味が分かれる。たとえばこんな話。

 

 クラシック音楽の世界で有名なパガニーニは、超絶技巧で知られるピアニストだった。病気のため痩せて常人離れした外見をしていたこともあって、当時のヨーロッパの人々は本気でこう噂した。

「あいつは悪魔に魂を売ってあの演奏術を授けてもらったらしい」

 キリスト教の協会までもがこの噂を信じたので、死後まともに埋葬してもらえなかった。

 

 けっこう本気で信じてたんだろうな、と思う。本当に角を生やした黒い鬼みたいなのがいて、それと取り引きできると本気で信じてたんだろう。中世には魔女狩りしてたくらいだからなあ……。

 「技巧にすぐれた演奏」と「悪魔に魂を売ってる」。

 現代日本に生まれた自分にはどう頑張ってもつながらない二項目をつなげて、世界を理解する人々もいたのだ。世界史を眺めると、そんなことばかり目に入る。

 

 つまり遠く離れた他人から見れば、理解できないのは自分のほうになる。それもそうだろうな、と思う。

 チバユウスケの歌詞ばかりを集めた『チバユウスケ 詞集』の中に「悪魔に俺のこと売っ払った天使抱いて眠る」なる歌詞があって、これとても好き。でもきっと理解できない人にはできない。

 「(人を)悪魔に売っ払う」と「天使」がなんでつながるんだよ。と言われたら、

 つながるよ、そういうものだね、私の中では何も矛盾しない。

 

 目の前に同じ世界があっても、その意味はみんなバラバラだ。それだけ世界は豊かなのであり、互いに理解し合えなくて、カラフルに彩られる。存在の意味はひとつではないし、ひとつにはまとまらない。

 世界は赤一色ではなく、黒一色でもないし、また虹色を強制される場所でもない。ここに政治的意味を読み取る人もいれば、単に色の話として流す人もいるように。

 

 フランスの哲学者メルロ=ポンティは、「あるものが絶対の唯一の意味を持つ」という考えに真っ向から反対していた。世界は最初から意味に満ちている。

「わたしたちの生は、あらゆる面において、存在という粗野な事実に意味を与える方法そのものである」。

 だから「なんのために生きるのか」と言われたら、世界に意味を与えるため、と答えても少しも間違いじゃない。だってそれがなかったら、剥き出しの事実が殺伐と転がっているだけになる。

 今度から生きる意味を訊かれたら、生きる世界を豊かにするためって言おう。訊かれるときがあるか、わからないけど。

 

 いま、エドワード・W・サイード『故国喪失についての省察』を読んでいて、メルロ=ポンティが出てきたので書いてみた。本人が書いた作品では『世界の散文』にこのあたりの話がある。

 一回読んだけど内容を覚えてない。覚えてないなら、理解できなかった可能性が高い。もう一回トライしてみるか。いまならわかることもあるかもしれないし。あるいはやっぱりわからないのかもしれない。それでもいい。

 

 メルロ=ポンティはきれいなフランス語を書くことで知られた人で、わかりやすく美しい文体が連なる。世界の複雑さがわかる人の文章が、簡潔でわかりやすいというマジック。悪魔に魂を売るのではなく、天使に愛されたのかもしれない。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。