見出し画像

なんでも聴けるけど、なにを聴いていいかわからない

 「なんでも聴けるけど、なにを聴いていいかわからない。いまはそういう時代」。きのう読んだ音楽の本には、そんなことが書いてあった。音楽に限らず、そういう時代だと思う。なんだってできるけど、何をすればいいかわからない。
 
 やりたいことが明確な人にとっては「自由」は朗報だ。したいことができる。でも「何をしていいのか」わからない人にとって、自由は残酷だ。何もできずにオロオロしているうちに、何をすべきかわかっている人との差がどんどん開いていく。
 
 だから、多少おせっかいではあったにしても「これをしといたらいいよ」って言ってくれる人がいるといい。昨日はそんなことを考えながら、とある温泉旅館に泊まっていた。旅館の部屋には『音楽の聴き方』なる本が置いてあった。
 
 どういうコンセプトなのかよく知らないで泊まった宿だったけど、音楽には一家言あるのだろう。ロビーにCDが陳列され、借りて部屋に帰れば、備え付けのCDプレーヤーですぐ聴ける。部屋には誰が選んだのか知らない、おすすめの曲リストがあった。
 
 せっかくなのでざっと見てみる。エリック・クラプトンとレナード・コーエンが目に留まったので、ロビーまで降りて借りてきた。クラプトンは、中学校の音楽の授業でなにか聴いた気がする。タイトルも曲調も、なにも思いだせないけど。
 
 思えば学校っていうのは、そういうところがよかった。何をしたらいいかわかってない子どもに、とりあえずは読み書きを教えてくれる。小学校の高学年にもなれば、政治の仕組みくらいまではひととおり教えてもらえる。公立ならそれがぜんぶタダ。
 
 あのころは毎年、教科書をもらうのが楽しみで、国語の教科書は配られた日にぜんぶ読んだ。詩や短歌、小説、ノンフィクションがまんべんなく入っていて、大人になったいま考えると、よく作られてるもんだなと思う。
 
 いかんせん教科書だから、露骨に質の低い文章は入ってない。だれかが吟味して選んでいる。そういうものに、半強制的とはいえ毎年ふれられていた時代は、いま思えば贅沢だ。
 
 部屋に帰ってエリック・クラプトンを聴く。あんまりしっくり来ない。次にレナード・コーエンを流すと、これはなんかいいなと思えた。「哀しみのダンス」が最初に入っているアルバムで、借りてきたCDはたくさんの手が触れてきたであろう使用感があった。
 
 そうなんだよな。だれかが「これはいいよ」って言ってくれるといいんだ。
 
 それが好みに合わないときもあるけど、それはそれとして、他人はいつも自分では選ばないような音楽を選んでくれる。「自由」っていいながらも、結局は自分の知っている範囲からしか選べない地獄は、いまの時代を生きる人ならみんな知っていることで。
 
 大人にはもう、毎年くばられる教科書なんてない。この年齢ならここまで履修しておいてね、と言う人もいない。むかしと違って「〇歳なのに結婚もしてないの」なんて言ったらセクハラでアウトになる。すべてのお節介を社会が嫌っている。
 
 だから「お節介されにいく」努力みたいなのが必要になっている。だれかが「これはいいよ」って言うのを無視しない。それぞれの分野に「この人の言うことは信頼できる」という人物を決めておいて、とりあえずその人を追いかける。そんなこと。
 
 国語の教科書がなくなったいま、そういえば本を選ぶ基準は「人のおすすめ」か「信頼できる著者」の二択になりつつある。
 
 noteで読書感想文を読んで手に取った『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』とか。あるいは、学生時代に知った新進気鋭の研究者の新刊、『現代フランス哲学』とか。
 
 そろそろ音楽にも、そういう先達みたいな人が欲しいなと思いつつ、レナード・コーエンを聴く。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。