「人のため」と「自分のため」。どっちがいいと簡単には言えなくても

昨日「成功の定義って難しい」という話を書いて、今日はその続き。

多くの人が既に考えていることだと思うけど、価値観の多様化した世の中をどう生きていくか──そのためには、誰か他人の基準を使って生きることを、一旦やめてみたらいいのかも。そんな感じで昨日の記事を書き終えた。

だけど、じゃあなんでもかんでも「あなたの思う通りにやれば、それが正解よ!」って言いたいのか、と言うと、それは違う。すごく人のためになるパワーを持っている人が「私はおうちで寝ていたいから、これが私にとってのいいことね」と言って引きこもっていたら、自分は「外に出て、その能力を他人のために使おうよ」と言いたくなる。

普段こんな言葉は使わないけど、この点に関してだけは、他者のためにパフォーマンスが発揮されることが明白に「正しい」と思うのだ。「本人がそうしたいと言うんだから、宝の持ち腐れを容認しよう!」という気持ちにはどうしてもなれない。

本人がしたいことと、世の中がその人に望むことは食い違う場合がある。そうした場合、どっちを遂行するのがいいのか、とても答えに苦しむところではあるけれど……。

思い出すのは、作家コナン・ドイルのことだ。小学生の頃、シャーロック・ホームズが好きだったので、なんとなく図書館にあった「作家の肖像シリーズ」みたいな本の『コナン・ドイル』を手に取った。そこに書かれていたのは、おおむね以下のような内容だ。

「コナン・ドイルは、正直ホームズシリーズを書くのにうんざりして、一旦は作中で主人公を死なせて終わりにした。しかし、周囲の強い反対に遭って、またホームズを復活させた続編を書かざるをえなかった。ドイル本人は、妖精などに代表されるスピリチュアルな世界を周囲に広めることに興味があった」

これを読んだとき、率直に思った。どう考えても、ドイルは周囲の言うことを聞き入れて「正解」だった、シャーロック・ホームズの小説を書き続けたことのほうが、ずっと広く他者に貢献できた、と。

もちろん、本人は嫌だったのだろう。それはわかる。わかるけれど、49対51くらいの割合で、やっぱり後者の気持ちのほうが勝つ。結果として彼は、今に至るまで広く英国文学を普及させる役割を担い、架空のロンドンにたくさんの人を招待しているわけで……。それは、彼が妖精の実在を説いて回るより、ずっとずっといいことだった。

日頃「正しい」という言葉は安易に使いたくないし、自分がやりたいこととのバランスは、いつもとても難しいとわかっていて、それでも「他者により広く貢献できることのほうが、それ以外のことよりわずかに正しい」。そう主張したい。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。