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ひとりでできるもん……がいいとも限らなくて

 ひとりでできるもん。そういう番組あったな、と思いながら、このところ読んでいる本を読み返している。食卓と家族を20年に渡って追い続ける『ぼっちな食卓』。
 
 多くの家庭を、長い期間にわたって調査をしていれば、当然どこかは破綻するところが出てくる。その破綻理由を「おもしろい」と言ったら不謹慎なのだろうけど、現代的だなあと思うくだりがあった。
 
 昭和の時代にあったような「夫の暴力」や「嫁姑争い」というのは、いまや破綻の理由としてメジャーではない、と筆者は書く。火花が散って派手に壊れていくような崩壊の仕方は、平成そして令和にはめずらしいことみたいだ。
 

 例えば、近年メディアでよく取り上げられる「家事・育児に非協力的な夫」の話も、そのこと自体が破綻の直接原因として語られることはほとんどなかった。むしろ夫に家事能力があるにもかかわらず、それが夫婦の協力に使われるのではなく「君がしたくないならしなくていいよ。ぼくの分はぼくが自分で勝手にするから、構わないで」と互いの話し合いや関わりを断つ方向に働いたり、夫婦関係の悪化に拍車をかけたりするケースが目についた。

岩村暢子『ぼっちな食卓──限界家族と「個」の風景』中央公論新社、2023年、66頁。


 人と人との距離が近いために破綻する……のではなく、互いに自立できるから助け合う必要がなく、距離が生まれ、やがて溝になる。静かで音のない破綻。喧嘩しない代わりに会話もない、熱のない関係。
 
 「君がしたくないならしなくていいよ。ぼくの分はぼくがするから」。これは、現代の夫像としてすごく「正しい」感じがする。逆に「女なら家のことはなんでもやれ。俺は家事なんぞやらんしできん」は、時代錯誤で「まちがっている」と言われるだろう。
 
 正しい感じがするのに、それが夫婦間の破綻を招いている。「自分のことは自分で」という発想は、なにも悪いものではないように見えるのに、関係悪化の原因になる。なにか変だ。
 
 違和感の答えらしきものは、もう既に文中に書かれている。何かができるということを、協力じゃなく、分離に使ってしまえばそうなる。
 
 「私はこれができるから、あなたの分も任せてほしい」ではなく「私は自分の力を自分のためだけに使う。あなたもそうしたらいい」というスタンス。それは自立というより単に利己的な発想で、お互いこれを発動したら、なるほど夫婦の仲も冷えるだろう。
 
 自立する力があるのはいいことだ。その能力を誰かのために使えたらもっといいし、お互いがそうできたら相手も自分も幸せになる。ものすごくあたり前の綺麗ごとで、いまさら言われるまでもない。
 
 でもそのあたり前のことを、もう一度言ったほうがいい社会なんだろうな……と思う。
 
 自分は結婚前までなんとなく「お互い自分のことは自分でする夫婦」が理想なのだと考えていた。理想というか、現代的。たとえば朝の出勤の時間がバラバラなら、互いに顔を合わせることなく、めいめいが自分の朝食を食べて出かけるような。
 
 そのイメージの裏に「わたしが相手の朝ごはん作ってあげること、ないよね」という気持ちがあったのは認める。自分だって出勤前は忙しいんだから、勝手に食べて出て行ってほしい。そういう発想。
 
 だから本で描かれている家庭のことは想像がつく。自分も似たようなところがあるからわかる。
 
 もっとも実際には、旦那さんの希望で毎朝ごはんを用意しているし、それが別に苦でもない。「相手のために何かしてやってる」みたいな気にもならない。やってくれって言われて、できるからやってる。それだけ。
 
 やっている側としては、そんなに「自分の時間と労力が削られる」と考えなくていいんじゃないかな、と思う。言うほど削られないし。互いに「ひとりでできるもん」と言うより、効率いいんじゃないかな。

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