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思い出の教室

 大学図書館に本を返す。寄ったついでなので校内をふらふらと歩くと、いろいろ思い出のある教室が現れてくる。

 ベルクソン演習をやった部屋、そのすぐ横の棟に向かい合うように見えている大講義室、インド思想史を習った場所に、語学の授業のためによく通った棟。サッカーの大会の翌日に、当時のドイツ語の先生が「今日の俺は機嫌がいい!優勝国はドイツだ!」と満面の笑みで入ってきた教室があり、フランス語の舞台をスクリーンで見た部屋があり。

 「場所」と「記憶」は、密接に結びついている。

 

 「テレワークになってから、思い出らしい思い出がなくなった」。そんな記事を今日読んだ。自宅で仕事できるのは快適でラクなんだけど、記憶に残る出来事がすごく少なくなった、と。

 ああ、わかる。自分もここ二年はオンライン授業で、記憶のトリガーになるものを失ってる。物理的な教室を見れば「ここであんなことがあったな」と思うけれど、パソコンの前に座っていても、受けた授業の思い出なんてほとんど浮かばない。

 せいぜい氏名の書かれた真っ黒な画面と、ズームの背景に設定されたドイツの森のうちへと消えていく、離席するときの教授の後ろ姿。それくらい。

 

 教室に通っていたときは、フランス系の授業に行くと女の子の比率が高くて、なんとなくいまのトレンドってこんな感じなんだな、と思った。

 きれいに切り揃えられた、後輩の茶色いショートヘア。同期の子が履いていた、青くくすみがかったスニーカー。先輩が使い倒していた黒いリュックサック。アシスタントの大学院生が飲んでいた、コンビニのちょっと高いコーヒー。

 すべて些細なことなんだけど、思い出すとカラフルな光景だ。

 

 オンライン授業に、反旗をひるがえしたいわけじゃない。交通費や家賃が浮いて救われている生徒はたくさんいたし、「寝ながら授業受けられるから楽」の声もあったし、体調が悪くて外に出られなくても出席できる。

 前述のテレワークの記事でも、わざわざ出社しなくていいから快適だと書かれていた。快適だけどさみしくて、味気ないけどラクではある。二年続いている状況の総括は、そんなところに落ち着いている。

 

 「オンラインじゃ味気ないなんて思うのは、古い人間の発想だよ。お前もキャンパスにずいぶん愛着があるらしいけどな、若い連中は家賃が浮くわ学校行かなくていいわで喜んどるじゃないか」

 父にはそう言われた。古い人間、か。それならそれでいい。私は物理空間がないと物足りない。画面の中で行なわれることはいつも現実の代替品にしかならない。それもとてもクオリティの低い代替品。

 もちろんオンラインだとラクはラク。ぎりぎりまで寝ていられるし、外に出るための準備のすべてが省けるし。だとしてもトータルで損失のほうが多い。コストを払うからこの二年間、キャンパスに行かせてほしかったよ。就職したいま言ったってムダだけど。

 

 ドイツが優勝したとき(大会名は覚えてない)、結果が「4-0」だった。自分はこれを「フィアー・ウント・ゼロ(4とゼロ)」と言ったら訂正されて、正解は「フィアー・ツー・ヌル」だった。零のことはドイツ語でヌルと言う。

 肝心の授業内容は抜けてるくせに、なんでこういう雑談は覚えているんだろうか。教室の前を通ると思い出す。

 

 フランス語専門の女の先生が発する厳しい視線とか、「辞書がいくつか回すので手に取ってみてください」と実物を触らせてくれた穏やかな男の先生。こういうのもぜんぶ、オンラインで消えたんだと思うと切ない。ラクで快適だったけどそれだけだ。

 

 大学の図書館は処分が決まった本を吐き出していたので、何冊か貰って帰ってくる。棚の間を歩いているうちに出会った他の本と一緒に。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。