見出し画像

私にとって、ちょうどいい温度

 ここ最近(10年単位での「最近」)上がっているのは、物価じゃなくて生活コストなのだ。なんてことを思う。「社会的に問題のない人」と見なされるための費用が増大している。
 
 戦後まもない頃は、子どもにツギをあてた服を着せていてもよかった。服は高かったから、みんなそんなもんだった。いまは子どもにボロい服を着せていると虐待やネグレクトを疑われる。そうでなければ貧しい家庭の烙印を押される。
 
 衣服が廉価になったのはいいことだった。でも同時に「それすら買えない人々」に見られるのが嫌で、みんな頻繁に服を買わざるをえない世界にもなった。「安くなったんだから買い替えも痛くないよね」と、流行ごとに買い替えさせる風潮もある。ダサいと思われたくない子たちは、しょっちゅうのように服を捨て、また買う。
 
 父はむかし「いい物を長く着る」という信念に基づいてずっと同じものを着ていたころがあるが、「いつ見てもおんなじ服だがや」と茶化され、貧しさを疑われるようになって宗旨替えした。
 
 昭和生まれの父と母は、何日かに一回しか髪を洗わない。平成生まれの自分の世代には「朝シャン」なる言葉が出たくらい、夜にシャンプーで洗髪するのはあたりまえになっていた。石鹸ではなくシャンプー。人によっては高いやつ。子どもでも10代になればそれなりにこだわりがあったりする。
 
 同級生の前で「きのう髪洗ってない」と言ったら、きっとかなり嫌な顔をされただろう。男子生徒が他の子をはやして「お前きのう風呂入ってないだろ~」とか「きのうと同じ服着てるっ」と言うこともあった。清潔さのレベルはまちがなく上がっている。
 
 衛生的でいいことだ、と思う。一方で、清潔さへの要求が過剰になってきている、とも思う。みんながきれいにしている世の中では、自分もきれいにせざるをえない。もちろんそれだけの手間とコストをかけて。
 
 教育のレベルも全体的に上がった。70代の自分の叔父さんは中卒で社会に出た人だ。ちゃんと就職してそこそこ出世もした。いまの時代それは現実的じゃない。高校「くらい」出てないと、と言われる。子どもが稼げる人間になる年齢は遅くなり、子育てにかかる費用が増した。
 
 仕方ないね、みんな他人よりちょっといい暮らしがしたいし、子どもにもそれを望む。みんなでやるから全体のレベルが上がって、脱落すると人後に落ちるから降りられなくなる。すべての人がいい生活を望んだ結果、お給料のほうはそれほど増えないまま「普通の生活」のコストが上がった。
 
 近ごろ流行りの「ミニマリスト」とか「敢えて狭い部屋に住む」みたいなムーヴは、その反動に見える。自分はそこまで潔い人間じゃない。ならどうすればいいんだろう。
 
 近ごろは「これ、なくてもいいかな」とか「ちょっと過剰だったかも」と思うことを控えている。テイクアウトのコーヒーを頻繁に買っていたこととか、ふらっと寄っていた喫茶店とか。青物屋の店主に勧められるまま買っていた、貴重なおいしい魚とか。小さな贅沢と思って買ったけど、別に魚好きじゃなかったわ、みたいな。
 
 周りがしている小さな贅沢は、ついつい自分もやっていい気持ちになる。人によっては「これが心の潤いで、ないと生きていけないんです」って人もいて、それはそれでいい。ただ「自分に」必要かって言われると、さして必要ないなあと思うものがある。
 
 いきなり社会を変えるのは無理でも、こういうところから変わっていけるんじゃないか、と思う。むかしに戻れという話じゃなくて、過剰になってきたのをやめること。朝シャンをしていた人がやめるくらいのこと。周りがそれが普通だって言っても、一日二回も洗髪する必要はないと思うんだ。そんな感じ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。