【詩を紹介するマガジン】第11回、会田綱雄
この詩人の詩はこれしか知らない。小さい頃に読んでよくわからなくて、少しだけ大人になったあと少しだけわかるような気がして、でもまだ汲み尽くせない。理解するのに年月を要する詩。
彼らの体が湖に「かるく/かるく」捨てられに行く光景や、蟹がそれを食いつくすのがイメージになって焼き付く。小さい子どもにはなんとも薄暗い雰囲気の詩だった。生命の悲しみ、ときれいな言葉にすると、その切なさがこぼれおちてしまう。
父母と子どもたちの命の連鎖、蟹とわたしたちの生命の循環。食って食われる関係を受け入れ、それを願って死んでいく人たち。こういう儚いものをそのまま書くと詩になる。
暗闇の中で灯もともさず、子どもたちに先祖の思い出を語る、吐いた息の白いのまで見えるような気がする。
最後の「やさしく/くるしく」のところを読むと、こういう表現ってなかなかできない、と思う。自分は「優しい」と「苦しい」を並列して考えることがない。だって優しいとは美しいことで歓迎するべきもので嬉しくて、苦しいはその逆じゃないか……
と日ごろは思っているのだけど、こうして書かれてみるとこの表現は現象を的確に捉えている。やさしく、くるしく、むつびあう。2つの形容詞はなにも対立しない。ひとつのところに同時にあって、だから悲しい、だから美しい。
人を愛するって、優しいと同時に苦しいもので、それが心底身に染みてわかるほど自分は大人じゃない。そういう意味で、自分からとても遠い詩。いつかわかるようになるかもしれないし、わかる前に死ぬかもしれない。
死んだらああしてほしい、こうしてほしいとも思ったことがない。穏当に行けば焼かれて灰になり、遺骨が墓に納まるんだろう。それくらいの理解だ。海に撒いて魚の餌にしてくれとも、野ざらしにして犬に食わせろ(小野小町)とも願っていない。
それが願える人は幸福なんじゃないか。死して自然にかえりたいと思える人は、自分よりもずっと、この世界に愛着があるように見える。魚の餌になり蟹に食べられながら、自然の世界のサイクルの一部になりたいと願えるのは、とても尊く見える。
死んで終わりになってなお、誰かの体に宿って命を続けたいと思うのは、とても美しいことなんじゃないか……。
自分が近代文明に慣らされてすっかり失ったものを、彼らはまだ大事に持っている。そんな気がしてならない。この「伝説」を読むと、自分が失ってきた感性があるのを思う。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。