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【詩を紹介するマガジン】第11回、会田綱雄

 この詩人の詩はこれしか知らない。小さい頃に読んでよくわからなくて、少しだけ大人になったあと少しだけわかるような気がして、でもまだ汲み尽くせない。理解するのに年月を要する詩。

「伝説」
 
湖から
蟹が這いあがってくると
わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ
 
蟹を食うひともあるのだ
 
縄につるされ
毛の生えた十本の脚で
空を掻きむしりながら
蟹は銭になり
わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる
 
ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたくしたちの小屋は灯をともさぬ
 
くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ
あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩をもちかえり
わたしくたちのために
熱いお粥をたいてくれたのだった
 
わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
瘦せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように
 
それはわたくしたちのねがいである
 
こどもたちが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖の上に舟をうかべる
湖の上はうすらあかるく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう

 彼らの体が湖に「かるく/かるく」捨てられに行く光景や、蟹がそれを食いつくすのがイメージになって焼き付く。小さい子どもにはなんとも薄暗い雰囲気の詩だった。生命の悲しみ、ときれいな言葉にすると、その切なさがこぼれおちてしまう。
 
 父母と子どもたちの命の連鎖、蟹とわたしたちの生命の循環。食って食われる関係を受け入れ、それを願って死んでいく人たち。こういう儚いものをそのまま書くと詩になる。
 暗闇の中で灯もともさず、子どもたちに先祖の思い出を語る、吐いた息の白いのまで見えるような気がする。
 
 最後の「やさしく/くるしく」のところを読むと、こういう表現ってなかなかできない、と思う。自分は「優しい」と「苦しい」を並列して考えることがない。だって優しいとは美しいことで歓迎するべきもので嬉しくて、苦しいはその逆じゃないか……
 
 と日ごろは思っているのだけど、こうして書かれてみるとこの表現は現象を的確に捉えている。やさしく、くるしく、むつびあう。2つの形容詞はなにも対立しない。ひとつのところに同時にあって、だから悲しい、だから美しい。
 
 人を愛するって、優しいと同時に苦しいもので、それが心底身に染みてわかるほど自分は大人じゃない。そういう意味で、自分からとても遠い詩。いつかわかるようになるかもしれないし、わかる前に死ぬかもしれない。
 
 死んだらああしてほしい、こうしてほしいとも思ったことがない。穏当に行けば焼かれて灰になり、遺骨が墓に納まるんだろう。それくらいの理解だ。海に撒いて魚の餌にしてくれとも、野ざらしにして犬に食わせろ(小野小町)とも願っていない。
 
 それが願える人は幸福なんじゃないか。死して自然にかえりたいと思える人は、自分よりもずっと、この世界に愛着があるように見える。魚の餌になり蟹に食べられながら、自然の世界のサイクルの一部になりたいと願えるのは、とても尊く見える。
 
 死んで終わりになってなお、誰かの体に宿って命を続けたいと思うのは、とても美しいことなんじゃないか……。
 
 自分が近代文明に慣らされてすっかり失ったものを、彼らはまだ大事に持っている。そんな気がしてならない。この「伝説」を読むと、自分が失ってきた感性があるのを思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。