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【詩】パウル・ツェランを読む。

 ここにツェランの詩がある。

 「マンドルラ」
 
アーモンドの中に──何がアーモンドの中にある?
無が。
無がアーモンドの中にある。
そこにそれはありそしてある。
 
無の中に──誰がそこにいる?王が。
そこに王がいる、王が。
そこに彼はいてそしている。
 
  ユダヤ人の巻き毛、君が白髪になることはない。
 
そして君の目──どこへ君の目は向いている?
君の目はアーモンドと向かい合う。
君の目、無に向き合っている。
それは王に向かっている。
そんなふうにいるそしている。
 
  人間の巻き毛、君が白髪になることはない。
  空(から)のアーモンド、王の青。

 宗教画で、キリストの後ろに輝いている後光。縦に長いアーモンドの形をしている。それを「マンドルラ(大光輪)」と言う。ツェランの詩は、ときどき宗教的な解説を必要とする。
 最後に出てくる「王の青」も、これはキリストの着る青い衣のことだ。訳の中には「ロイヤルブルー」と訳しているものもあったけれど、いまの日本でこれを言うと「ロイヤル?英国王室かな?」と思われかねないので「王の青」にする。
 イエス・キリストは処刑されるとき、揶揄の意味を込めて「ユダヤ人の王」と呼ばれた。ツェランの詩の中の「王」も、これは世俗の王様のことじゃない。青い服に身を包み、アーモンドの後光を着る人は他にいない。これはキリストを指す。
 
 パウル・ツェランは、本名をパウル・アンツェルと言う。2つの名前を並べてみると、わかることがある。

CELAN(ツェラン)
ANCEL(アンツェル) 

 アナグラム(アルファベットの並び替え)でできている。本名の「アンツェル」はユダヤ名だが、「ツェラン」になるとその雰囲気も消える。自分のユダヤ性をどうして薄めようと思ったのかはよくわからない。
 ツェランは第二次世界大戦時のヨーロッパ、つまりナチスの迫害を身を持って経験し、詩にもその色が濃い。神に祈ることの無意味さを感じながらも、まだなにものかに祈ろうとする悲痛さがいつもある。
 
 救ってくれない神さま。でもそれはイエス・キリストも同じだった。イエスもまた神に祈りながら処刑された。「神よ、なぜ私を見捨てられるのですか」とは、処刑時のイエスの言葉として有名だ。
 ユダヤ教に反逆して処刑された王さまが、青い衣服に身を包み、アーモンドの無の中に立っている。聖歌「きよしこの夜」では、イエスは巻き毛のかわいい子として歌われているが、その巻き毛は白くならない。白髪になるまで生きられず処刑された。
 
 神よ、なぜ私を見捨てられるのですか。
 ナチス迫害下のユダヤの人々が、どれだけ凄惨な境遇を強いられたか、断片的にしか知らない。それでも想像してみる。
 きっとイエスと同じことを叫びたくなったんじゃないだろうか。既存の秩序を乱す者として十字架にかけられ、そして死んだ「王さま」と同じように。多くのユダヤ人が髪が白くなるまで生きられず、収容所の中で焼かれて風に溶けた。
 
 目はアーモンドの形をしている。目は宗教画のイエスと向かい合う。人々の救世主として華々しく復活するイエスではなく、人間としてのイエスと向かい合う。その人は王の青を身にまとっている。
 
 解説をつけるとしたらそういう詩だ。最初は「アーモンド」がなにかよくわからなかったし、訳語もピンとこなくて流し読みしてしまったけど、今は違って見える。
 絵を見ているとき、自分の(アーモンド形の)目の中には、その絵が映っているはずだと思った。キリストの絵画を見ているなら、見ている目の中にキリストはいる。ナザレのイエス、ユダヤ人の王が、ツェランの瞳に映っている。
 
 そして王の衣服は青い。それは空を着ているのかもしれない。中空の色、何もない場所の色、無の色。権威なき王の着る色。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。