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短歌にただいま

冴えていたギャグをいくつか借りてますなかなかウケが良くて ありがと

 

 人から借りてるものってある。物理的じゃない何か。仕草とか言葉とか思考回路とか、そういうもの。私の中に他人が溶けていて、借り物と言いつつ少しも返せない。返す気もない。

 

 むかしの知り合いで、否定するときに手をヒラヒラさせる人がいた。女の子で年下でしっかり者で、好きだった。好きな人の仕草はうつる。私も何かを否定するとき、同じように手を振る癖がついた。「~ないから」と言いながら、ひらひら。

 

 私がそうしていたらある日、当時一番一緒に過ごした子が同じ仕草をしてみせた。うつった、と思った。こうやってどこの誰とも知らぬ誰かと、私たちは互いに似通っていくのだと思った。

 

 なんだかこんな風に「あるよね、そういうこと」って言いたくなる句が詰まっている。『それはとても速くて永い』。

 ブックマークをつけた句が、ほかにもいくつかある。

 

日々というこのやわらかな明滅に少し呆ける 風待ちながら

そんなにも疲れた顔をしていたか譲ってくれた座席に埋もれ

誰とでも寝ればよかった踏み外すほどの梯子も道もないのに

元気ですか。僕もぼちぼち元気です。こっちは夏が終わりそうです。

風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか

 

 日々というこのやわらかな明滅。職場で休憩がてら外に出て、街を見ながら空気を吸い込む、あの瞬間の気持ちになる。

 ライプニッツは、誰であれなんであれとても些細なものまで本当は知覚しているのだと言った。私たちは刺激が強く近くにあるものだけを感覚すると思っているけど本当は違っていて、はるか遠くで起きた風のことまで知っている。ただ遠すぎて意識にのぼらないだけで。

 だから街を見ているとき、気づかないところでその隅々まで知覚しているのかもしれなかった。点にしか見えないあの窓の中に、ひょっとしたらかつての知り合いが暮らしていて、表面的には気づかないだけで心のどこかではそれを知っている。お互いに。

 それなら奇跡の再会とか運命の出会いとかいうのも、別に不思議なことじゃないね。だって本当はそこで出会えるってわかってた、もしライプニッツが正しいなら。

 

 それでもどうしても遠くの事情は「わからない」ことになっているから、様子を知りたい、知らせたい人には手紙を書く。夏が終わりそうです──とは書かないけれど、椿の見頃も終わりです。私もぼちぼち元気です。気分を明るくしてくれる、レターセットが見つかったので送ります。「あなたの夢がすべて叶いますように」とフランス語で書かれたファイルも一緒に。

 

 Que tous vos rêves deviennent réalité!

 

 日ごろ接している周囲の人たちが、どれだけどんな夢を持っているか知らない。たとえ夢のない人だって、痛い苦しいはごめんに違いない。自分も同じだ。ものすごく心燃やす野心があるわけじゃないけど、なんとなく幸せになりたい。なんとなく生きて幸せでありたい。そのために政治活動をしているわけでもなんでもないけど、やっぱり思う。みんな幸せでいてほしいなって。誰を呪っているわけでもないから。

 

おやすみ こんなん奇麗事やけどみんな幸せやったらええな

 

 ときどき過去に関わった人を思い出し、中には「ケッ」と感じる人もいるけど、別に不幸になってほしいわけじゃない。自分と関わり合わないままに、どうぞ幸せでいてください。遠くにいてくれる限りは、私も幸せを祈れる気がします。そんな人たちを含めて「みんな」。

 

 短歌の本を読むのは久しぶりで、最近とれてない栄養が補給された。詩とも違う、俳句とも違う切なさが漂って、ただいまを言う感覚になる。短歌ってこうだったな。五・七・五・七・七、日常をふわっとすくい上げる、あのリズム。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。