見出し画像

価値を見出す

二種類の価値を考える。ひとつ目が「他人のつけた価値」、二つ目が「自分で見出した価値」。他人がつけたものは、とてもわかりやすい。「お金がたくさんあるのがいいこと」とか「タワマン暮らしは成功の証」とか、もっと単純に「高学歴」とか。

二つ目が「自分で見出す価値」で、これはわかりにくい。周囲からすれば「なんでそんなものを」と思うようなことの中に、価値を見つけ出すことだから。例えば、最近公園のベンチから見える風景がすごく綺麗──程よく木が植えられていて、周囲の視線から守られながら道行く人々の気配を感じられる、静かだけど解放感がある──のに気づいた。他の人からすれば、そこは公園の片隅でしかないかもしれないけど、自分にとっては落ち着く、価値のある場所。そんな感じ。

誰もが「それはいい」と価値を感じているものは、手に入れるのに大きなコストがかかる。タワーマンションの上の方に住むのは、田舎でアパート暮らしをするより遥かに値段が張るし、高学歴を得るにはそれなりの努力と、努力を支えるあらゆるお金と時間、労力が必要になる。それを否定する気はないし、皆が良いと言うものには、良いと言われるだけの理由があるだろう。

だけど、それは「他人と共通の、わかりやすい価値」でしかない。自分で価値を見出したというより、既にいいと言われているものに乗っかっているわけで、それだけだと幸せにはなれないかもしれない。常に他人の価値観、誰かが作ったわかりやすい成功の条件(それも高いコストがかかる)を拾い集めるのは苦しい。だから、自分が何をいいと思うか、他人がむしろ欲しがらないようなものでどこまで幸せになれるか考えたほうが、低コストで幸福への道を歩めるだろう。

冬のいまなら、道端で咲いている椿の花が綺麗だ。愛でるのになんのコストもかからない。外に出て眺めて味わうだけだ。とりわけ、深い緑が続く中に「紅一点」とばかりに咲く、赤椿は趣があっていい。足を止めて見る人は少ないけど、自分にとってはいい光景だ。

雑貨屋で「このカードは売り切れました、ごめんね」という紙があって、試しにこれくださいと言ったらタダで貰えたこともある。葉書の切手のあたりをちょうどいい大きさに切り取って、切手の絵柄を楽しむブックマークにしたりもする。

人の幸福は、持っている物の価値ではなく、どれだけ多くのものに価値を見出せるかで決まるそうだ。誰かがそんなことを書いてた。いま価値あるものだって、すべては最初に誰かが「これは価値がある」と見出したから始まったのであって、誰も発見しなかったら、そのまま埋もれていただろう。

見出す人になりたい、と思う。与えられた価値観は、それはそれで他人と生きていくときに大事だけど、そればかり追いかけてもつまらないだろうから。価値を追いかけるより、見出す人として暮らしたい。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。