#こんな社会だったらいいな ~「働くカラダ」編~

満員電車も過労死も痴漢も、同じ思想の内にあるような気がしてならない。自分や他人の体を粗末に扱い、狭い空間にぎゅうぎゅうに押し込めても、長時間働かせても、勝手に触ってもいい、という思想──それはまとめるなら「身体を軽視している」ということに尽きると思う。

働く人の身体を軽んじているから、まるで運搬物のように電車に押し込めることができる。体が悲鳴を上げることを「根性が足りないからだ」などと言ってしまうから過労死が起きて、他人の身体を「減るもんじゃないだろ」とモノのように見なすから痴漢ができる。

だけど、どうだろう?体はそんなにどうでもいいものだろうか?

たぶん、どうでもいいと思っている人が一定数いるのだろう。だから彼らは「暑くてもスーツ姿で働け」とか「満員電車が嫌なんて甘え」とか「触れたくらいで文句言うな」とか言えるのだ。

彼らに対して少し口の悪いことを言うと「体を無視してOKと思ってるなんて、頭大丈夫?」という感じになる。根性論を説くのは、人体にとって快適な環境を整えてからの話だ。脳が働く前に体がやられたら、根性も何もあったものではない。

「心の問題だ!」「甘えだ!」と言う人には「体あってこその心ですので……」としか言いようがない。言うまでもなく、体と心は密接に繋がっている。

だから、仕事をする前に疲れてしまうような電車の環境は、もっと真剣に改善することが考えられるべきだ。身体の疲労が限界に達したら休むべきであって、仕事のし過ぎで死ぬようなことがあってはならない。他人の身体は他人のものであって、誰かが勝手に触れたり殴ったりしていいようなものじゃない。

すべて単純な話だ。「自分や他人の身体をもっと尊重するべき」、言いたいことはそれだけだけど、その単純なことがなかなか理解されないと感じている。

それなら、最悪それを言う人たちだけが、自分たちの身体を軽んじていればいい。それは他人に強要するようなことではないし、強要してはならない。

自分の身体に関して言うなら、自分がこれを尊重する必要がある。粗末に扱われたら声を上げること、そしてそれができないときは、粗末に扱うほうが間違っているのだと考えて自分を決して責めないことだ。だって、自分の体へのひどい扱いに慣れてしまえば、いずれ他人にもそれを押し付けるようになるだろうから。

その人の体は、その人そのものだ。そういう思想のもとで、もっと身体を尊重する世の中になればいいと思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。