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『夏に抱かれて』

実は読んだことがなかったサガン。フランスの女流作家で、若くして注目を浴びた人、あと残ってる写真はなんか妖艶な感じ……それくらいのイメージしかなくて、実際の著作を何も読んでなかったので、図書館で借りてきた。『夏に抱かれて』。

原タイトルは ”De guerre lasse” で、少しも夏に抱かれていない。これは「戦争に疲れている」本だ。第二次世界大戦が影を落とすフランスが舞台で、ドイツ軍に国を占領された日常を描いている。国境線が接している国々ってこういう感じなんだな……と、島国に暮らしていてはわからない手触りが伝わってきて、読んでよかった。

当時のフランスにも、占領された地域とされていない地域が存在し、両者の感覚には開きがあった。登場人物のシャルルは非占領地域に生きていて、ドイツ軍がいる日常を知らない。

「まあ、僕はね……」とシャルルは言った。

「ここはきみも知っているとおり、非占領地域だから、他とはまったく違うのかもしれないね。占領されている所では、そんなに恐ろしいことが起こっているのかい。ドイツ人はきちんとしていると聞いたことはあるが」

「バスの中で年寄りのばあさんに席をゆずるドイツ人も、たまには確かにいるよ」とジェロームは言った。

「それくらいのことで皆は満足し、目くばせをして喜び合っている。まるで善良な人達に占領されてよかった、という具合だ。しかしその間、彼らの秘密警察隊や、ナチ親衛隊、ナチス秘密国家警察(ゲシュタポ)は、ユダヤ人と共産党員ならあたりかまわず誰でも逮捕するし、女子供も皆ひっくるめて全員収容所に送り込んでいるんだ。そこから帰ってきた人はいないんだ」

善良な人もいる、という描写に、異常が日常になっている生々しさを感じる。「陸続きの隣の国から来た人々が、ちょっとのあいだ一部の地域に留まるだけ」、そう思っていた人も多かったのかもしれない。「よかったじゃないの、占領したのが野蛮人でなく、おばあちゃんに席を譲るようないい人たちで」……市民の中にはそんな会話もあったのかな、と思う。

本の中には、いまなら多くの非難を浴びるであろう表現も多い。ユダヤ人への無関心、ヒトラー嫌悪を茶化す悪ふざけ。でもこれが当時のフランスのリアルなんだろう。いかにそれらが現代的に見て「不適切」な文章だったとしても、歴史から削除されないでほしい。小説はフィクションとはいえ、その時その場所の空気感を伝える、貴重な記録でもある。

いま日常だと思われていることも、記録されなければ将来、簡単に「なかったこと」にされてしまう。そんなことを思う。書き留めておかないとどんな感情もスルスルと手をすり抜けていくように、書き残されないことは存在しなかったものとして空気のように扱われる。

その中で暮らしているときには、なんでもないと考えていたものが、あとから大切な記憶になることもある。だからできるだけたくさんの、それもどうでもいいような話を書き留めておきたいと思う。図書館からサガンを借りた日が、ひょっとしたら何かの記念日になるかもしれない。

後から誰かに「感染拡大のなか東京オリンピックが閉会式を迎えたとき、まったく関係のないフランス文学を読んでいる人もいました」と言われる可能性も否定はできない。「当時はそれほど危機感を持っていない人もおり、またすべての市民にとってオリンピックが最大の関心事というわけではなかったのです」。

サガンはこの小説『夏に抱かれて』で、初めて自らの作品に政治を持ち込んだ。訳者あとがきにそう書いてある。彼女がそうしてくれてよかった、と、21世紀の日本で思う。初めて読んだサガンは、生々しいヨーロッパの空気感を教えてくれた。

引用:フランソワーズ・サガン『夏に抱かれて』朝吹由紀子訳、昭和63年、23頁。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。