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家族と食事『ぼっちな食卓』

 きのうが新年初出勤だった。社員食堂が休みなので、お昼ご飯をコンビニで買う。こんなことをするのはすごく久しぶりだ。からあげとサラダ、おにぎりで700円弱だった。デスクで食べていると、なんとなく「エサを食べている」ような気持ちになる。
 
 すべてがうっすら冷たくて、器に盛られてもいない。コンビニで買うご飯なんてそんなもので、贅沢を言ったらいけないのだろうが、これなら社食のほうがいいなと思う。だって基本、できたてで出てくるし。調理の人が器に盛ってくれるし。
 
 いま読んでいる『ぼっちな食卓──限界家族と「個」の風景』の中には、コンビニ飯が常態化している人がちらほら出てくる。家族の食生活を10年、20年に渡って追った本だ。
 
 「小さい頃からお金を渡されて、それで好きなものを買って食べる」子どもや、「適当に出来合いのものを買ってきて一人で食べる」夫。そういう人々が珍しくないらしい。自分が「エサみたい」と感じた食事が、日常の人もいる。それも結構な割合で。
 
 別にそれが悪いとは言わない。コンビニの衛生管理は、下手な素人よりしっかりしている。「家庭に入った人間は、常にできたての食事を用意せよ」なんて昔気質なことは、自分も思ってない。スーパーの惣菜もコンビニ飯も悪ではない。
 
 好きなときに、各人が好きなものを買って食べる。それの何が悪い?
 
 そう言われたら反論できない。する気もない。便利でいいですよね、現代的で、と答えるだろう。
 
 なら、自分の家庭でそうしたいか?こう訊かれると、ちょっと事情が違ってくる。『ぼっちな食卓』を読んだあとならなおさら「そういう『自由なスタイル』はやめておいたほうがいいらしいな」と思う。
 
 「自分のことは自分でやる」スタンスはなるほど、いいところもある。でも高じれば家族が「お互いになにも干渉せず、いてもいなくても同じ」存在になっていく。それって怖い。それは家族というより、赤の他人の寄せ集めみたいに見える。
 
 実際「ウチの子には自分で食べるものを自分で買わせて、自立させてます」という家は、徐々に家族らしさを失っていく。調査している10年のうちに、年齢1ケタだった子どもたちは10代になり、無断外泊が増えたり、親の干渉を過度に嫌ったりするようになる。
 
 アルバイトで貯めたお金は、なにに使おうが親に口出しはさせない。生活リズムも個々人の自由。親は当然、子どもの帰宅が遅くなっても感知せず、食事を用意して待っていることもない。「互いに干渉しない」スタンスの元に、家族が空中分解している。
 
 好きなときに好きなものを食べる。好きなときに寝て起きて出て行く。それを突き詰めれば、家族は一個の共同体ではなく、ただの個の集まりになる。単なる同居人としての母親、父親、兄弟。「自由」の結果がこれだっていうのは、果たしていいことなんだろうか。
 
 空中分解した家族は破綻しやすい。目立った問題がなくても、一緒にいる意味を失って本当にバラバラになっていく。調査に出てくる主婦の一定数は「自由になるお金が減っちゃうから離婚したくない」と言うが、お金の問題がなかったら別れているだろう家族。
 
 そんなのって、あんまり幸せそうじゃないなあ……。お互いに「相手のために何かしてやるなんて損」「なんで私がそこまでしなきゃならないの」と思いながら、一つ屋根の下に暮らすこと。一緒に食事を摂ることすら疎ましい関係として「家族」が捉えられている。
 
 それもまた時代なんだろうな……。みんな自分が大事で、自分の時間や労力が大事で、子どもや配偶者のために割くのももったいない。良かれ悪しかれ、世間の風潮はそこに向かっている。
 
 自分がそれに呑まれるか、抗えるかはわからない。時にはチンするだけの食品に頼るし、最近はお弁当だって作ってない。一応、旦那さんとの日々の食事は作っている。
 
 子どもが産まれたらどうなるんだろう。本の中に出てきた人々のように「ベビーチェアに座って、一人で食べられるものつまんでてよ。作るの面倒なんだから」と思うだろうか。それとも、曲がりなりにも食事を作る母親になるだろうか。
 
 ひとつだけ言えるのは、食事は食事であってエサではないってことだ。自分がひとつ、譲れない一線があるとしたらここ。そこには文化があるべきで、文化に特有のルールがあるべきで、きっとここだけはずっと譲れないのだと思う。
 
 食事はできたら、器に盛って温かいものを出したい。もちろん箸も箸置きも出して。


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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。