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期日前投票がはじまったので

 選挙に行ったついでにケバブ屋さんに寄って、初めてケバブを食べた。ソースなしで頼んだら水分がまったくなくて乾いたから、次はなにかしらソース付きで頼もうと思う。店はいかつい外国人のお兄さんとおじさんが経営している。
 
 今回2枚目に渡された投票用紙は、比例代表を選ぶものだった。党の名前を書いてもいい……のだけれど、候補者氏名を書くとよりよい。というのは、ここで多くの票を取れた議員は党内での発言力が強まるため。
 「この人に発言権を持ってほしい」という政治家がいたら、2枚目は名前を書いてくるのがおすすめ。一票の差で当落が決まることもあれば、当選確実な候補であっても、票数が多ければ発言権が増す。選挙っていうのはそうなっているらしい。
 
 20歳で初めて行った選挙では、入れた候補者は落選し、「一票入れたけど別に趨勢には関係なかったらしいな。投票行くの馬鹿らしい気がする」と考えたことはある。
 とはいえ、選挙で盛り上がっているSNSや街にいる政治家を見ると、応援したい人とそうでない人がわかるようになって、それでまた投票に行く。今回票を入れた人は、下馬評を見る限り当選しそうだ。党内でよりパワーを持ってほしいので、一票入れてきた。
 
 民主主義は、かなりの部分「多数決」と同じ意味で、多数決がいつも正しいわけじゃないのは、みんな小学校の教室で学んだと思う。何かを多数決で決めると、実力より人気で勝負がついてしまう。
 中学校の生徒会選挙でも「仲のいい子に入れる」とか「応援演説がよかった人に入れる」とか言う生徒が多くて、肝心の本人スピーチの内容は誰も聞いてなかった。学年を問わず知り合いの多い子が勝った。
 
「多数決って、要は人気投票でしょ」
 小学校の同級生が、冷めた表情で吐き捨てたときがある。確かみんなの描いた絵が教室に貼りだされた時で、一番得票数の多かった絵が、修学旅行の冊子の表紙になる。吐き捨てたシオリちゃんは、漫画が好きで絵がうまかった。クラスで一番上手だった。
 でももう1人、サヤカちゃんという子がいて人気者で「わたし表紙やりたい」と言い出した。実力にはすごく差があったものの、シオリとサヤカで票を競ることになった。結果は覚えていない。
 
 民主主義にはそういうところがある。名前を知らない政治家に票は入れられない。だから露出が高い候補者がとりあえず有利になる。二世政治家になると、知名度で始めから大きくリードを取れる。
 あるいはとにかくいろんな人、いろんなところに挨拶に回った人が勝つ。中学の生徒会選挙がそうだったみたいに。
 
 だからって民主主義は悪じゃない。他のどの政治形態よりマシだ。そう思うから選挙には行く。シオリとサヤカみたいな接戦になったとしても、先生がひいきしている子を勝手に採用するよりはいいはずだ。民主主義は至高じゃないけど、独裁よりはいい。
 
 世の中には「俺は間接投票制が気に入らないんだ、直接投票ならやってもいい。古代ギリシャの、広場まで行ってはーいって手挙げるやつ」と言う人もいた。理屈はよくわからなかったけれど、ポリシーを持って投票しないなら、それはそれでいいと思う。
 ただ自分は選挙には行くし、白紙投票もしない。結果が出たあとで「どうして世間は私と同じ意見じゃないんだ、市民が愚かなのが悪い」と嘆いたりもしない。みんな自分なりに考えて選挙に行くのだから、出た結果は全体の総意として受け入れる。
 
 台湾のオードリー・タンが、政治と選挙についてこんなことを言っていた。
 本来なら、毎日のように市民に政治に参加してほしい。デジタルの世界ならそれが可能だ。

 そう本来なら、政治は日常と直結しているから、毎日やってもいいくらいかもしれない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。