「正しい」の不人気

「正しい」の取り扱いは、いつだって難しい。正しければ報われるってもんじゃない、それは誰もが義務教育中に学ぶことだ。人気投票みたいなノリで生徒会の役員が決まったり、先生に可愛がられている子が、真面目にまともにやっている子よりも優遇されたり。それって全然「正しく」ない。当時はそういう光景が腹立たしくて仕方なかった。でも、少し大人になった今、少し高いところから「正しさ」を俯瞰して見ることができる。

正しさは人気がない。それはそうだ。人間にとって一番大事で優先すべきものは感情(恐らく本能に紐づいている)で、その感情が暴走しないように規制をかけるのが理性であり、理性が産み出す「正しい」なのだから、その立場上、恨まれるには決まっている。

誰かが言っていた。
「正しいってのがそんなにいいことなら、裁判官なんか人気者だよ。出てきた瞬間、ワーッて拍手が鳴るよ。そんな裁判官、見たことあるか?ないだろ。それとこれとは別物なんだよ」

そうですね、もちろん感情に訴えかける人間が人気者になるんであって、まともなことばかり言う堅物はいつだって煙たがられます。自分とてそれに異論はない。常に道理をわきまえ、理的に清らかで、一点の曇りもない人がいたとして、その人と仲良くできる自信はどこにもない。誰だって、他人を裁いてばかりいる正しい人より、自分を受け入れてくれる優しい人を好むものだ。

でも、このところ「お気持ち」が暴走する例が増えた。感情に流されて「気持ち悪いものは規制しろ」とか「私が傷ついた以上、悪いのは相手」とか、「自分の感情=疑似的な正しさ」と見なす人が増えた。自分もそういう人に苦しめられて、何かおかしいんじゃないかと思った。「あなたが何をしたとしても、していなかったとしても、私が傷ついたら悪いのはあなた」と言う人と、長くは付き合えなかった。

「正しい」って、人の気持ちに寄り添うことじゃなかったはずだ。だって「気持ち悪いものを社会から排除しろ」なんて無理じゃないか。それがまかり通るなら、誰かが「あなたを見ていると気分悪いから街に出ないで」と言うのも通ることになってしまう。「気持ち悪い」をいくら正当化したところで、それはかえって自分の首を絞めるだけだ。同じ理屈で自分も裁かれる。善悪は善悪、感情は感情だ。

正しさは人気がない。それはわかる。感情は大事だ。それもわかる。どっちを取るのも本人の自由だ。だけど、どちらにしても「自分だけそこから免れる」道はない。感情で人を糾弾するなら、自分も誰かの感情に叩かれる。正しさで人を裁くなら、同じ正しさが自分の身にも適用される。「公平/フェアである」とはそういうことだ。

いま思えば「あなたのせいで傷ついた」と言う人には、まったく同じことを言い返せばよかったんだな……と思う。そして、そんな感情による不毛な殴り合いをするくらいなら、いわゆる正しさで裁かれるほうが、ずっとマシに思える。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。