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救いがない物語

救いのない怖い話を読んでいる。「なんでそんなのわざわざ読むんですか」と訊かれたら、なんて答えよう。「他人事じゃない感じがするから」だろうか。例えば「負けた男は死ぬしかない」の一文に、自殺した身内の姿が重なるからだろうか。あるいは昭和の経済成長下で過重労働を強いられた人々の、暗い思い出話がよぎるからか。美しい言葉に包まれながらも、救われなかった人を思い出すからか。

「舞踏会」と題された短編で、作者は佐川恭一という。どんな作家か少しも知らない。こういう文章を書く人だ。

ナチス・ドイツにおける悲劇はユダヤ人に対するホロコーストのみに留まらない。優生学思想に基づいて「生きられるに値しない生」であると判断された人々が、T4作戦の名の下に数万人から数十万人規模で安楽死させられている。精神病者や遺伝病者、就労不能者などが「処分者」として選ばれ、灰色に塗り込められたバスで安楽死施設へと移送され殺された。

「でもそれってナチスの話でしょ、私たちはどんな人間であれ生きていられるんだからいいじゃない」。そういう反応もあるだろう。うん、いまの日本にそんな話はない。同性愛者の彼も、精神疾患持ちの彼女も「普通に」生きている。でも、だからそれですべて問題ない、って言えるんだろうか。作者はそうは言わなかった。

「生きられるに値しない生」という概念は、この厳しい世界を生き抜く人間たちの中に強く根を張っている。(…)ぼくは自分が「処分者」と判定され、灰色のバスのなかで温かいコーヒーとサンドイッチをふるまわれた後、ガス室で無惨にも殺されることを想像した。ぼくは(…)国家にしてみれば確実に下から数えたほうが早い、生産性の低いお荷物だ。その思想の下ではぼくは死ぬ。
男がギブアップすることは許されない。男はダウンしてもすぐに立ち上がることを要求される。社会というレフェリーが腕を引っ張り上げ、ファイティング・ポーズを取らせる。腕が折れていても、脳震盪が治まっていなくても、レフェリーは「大丈夫だね?」という顔で男を覗き込む。否定は死を意味する。
泣いて、休んで、負けた男に居場所はない。「居場所」を作り救済者づらをしているやつらは、ほとんど金を恵んでくれない。金が一番の問題だというときに金が一番の問題ではないと言い張り、大抵は一円の金も出そうとしない。ここで楽しい時を過ごして、よそで金を稼ぐ力を回復させなさい。結局身も蓋もないその言葉をオブラートに包んで繰り返すだけだ。

……こういう文章を読むとしたら、今まではたいてい東アジアのどこかの国の翻訳だった。これは日本語がオリジナルなので、東アジアが悪い意味で似通っていってるようで暗くなった。ここに書かれたすべてが事実だとは思わない。思わないけれど、現実の一部であることは確かだ。

福島で被災したあと、東京でビッグイシューを売るようになったK野さんのことが浮かぶ。カウンセラーに話を聞いてもらえるのはいいものの、精神疾患のため就労できる気配がないH美ちゃん。辛いのは男性ばかりではない。そうは言っても、自殺したのは身内の男性だった。女性が自ら死ぬのは見たことがない。サンプル1だ。半径5mくらいの話だ。

ぼくはあなたの救いたいと思う存在ではない。ぼくはあなたの想定の外にいる。

支援し救う立場にいる人も、助けたい人間とそうでない人間がいる。誰もがうっすらそれをわかっている。これを書いた人も。そういう選別がそこここで行われている。もし誰からも選ばれない人がいたとして、それを自己責任だと言って片付けるのは正しいだろうか。「正しい」と思う人にこそ読んで欲しい。

『ことばと』佐川恭一「舞踏会」

https://honto.jp/netstore/pd-book_30226690.html


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