言葉の持つもの

あなたは、その赤いものがリンゴだと知っている。形さえ同じであれば、色が青だったとしても同じ名前で呼ぶだろう。言葉は、その言語圏の文化や体験を孕む。

仮に、どこかの部族で「赤リンゴは体にいいが、青リンゴは食べると死ぬ」と考えられていたとするなら、二つは別々の名前で呼ばれるだろう。赤いほうは「薬」「天使」と名づけられ、青なら「悪魔」「絶望」と呼ばれているかもしれない。

私たちが、色に関わらずリンゴをリンゴと呼ぶことから、日本語圏では、それらを明白に区別する必要がないこと、色の違いを些細な差異と捉えている背景が見えてくる。

フランス語では、蝶と蛾をまとめて「パピヨン」と言う。彼らにしてみれば、あれらは「羽根があってヒラヒラ飛ぶもの」という以上のものではないのだろう。生物学的にも、両者の間に大きな差異はない。しかし日本語圏では、花に留まって蜜を吸うあの昆虫と、主に夜間に活動し光に群がるあれとを、まったく別々のものとして見る世界観があって、だから言葉も区別される。

似た例を挙げれば、英語はウサギを示すのに「ヘアー」と「ラビット」の二単語を分ける。野ウサギなら「ヘアー」で、人の手のかかっていない野生のウサギを指す。「ラビット」は、食用あるいはペットである場合に使われるので、「ピーターラビット」は恐らく食用兎なのだろう。調べたら、イギリスの田舎ではウサギをパイにして食べるらしい。

どんな言葉を使おうが、それが持つ背景と無縁でいることはできない。たまに「自分はまったく中立的なものの見方をする、無色透明な人間だ」と言いたげな人がいるが、人間として言語を使う以上、そんなことは不可能だ。使う言葉によって、自分が持てる考えなんて、既にある程度、決められている。

人は言葉によって思考する。知っている言葉以外のことを、人は考えられない。単純な話だ。

だから語彙は多いほうがいい。結局そこに行き着くのか、と思われそうだけれど、これは本当にそうなんだ。知らない言葉で考えたり、悲しんだり、人に何かを伝えたりすることはできないから。知らなかったら、その言葉がある人生そのものが立ち消えてしまうから。

そういうわけで、今日も語学の勉強を続けている。野兎と食用兎を区別しろと言われることなんて生涯ないかもしれないけど、そういう文化を持つ言語が自分の中に増えただけ、私は考える材料を増やしたことになる。それは何も無駄なことじゃない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。