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図書館ものがたり

 図書館に本を寄付する。慣れないからドキドキする。
 
 寄付するのは二回目で、最初はよかった。予約のたくさん入っている話題作だ。調べた段階でも189人待ち。「ご予約が多いようなので寄付させてください」と言える。館内には「たくさんの人が読みたい本があります、該当の書籍をお持ちの方、読み終わったら寄贈願います」の貼り紙がある。断られることはないだろうと踏んだ。
 
 寄付であることを伝えて差し出すと、カウンターにいた図書館の人は嬉しそうな顔になり、スッと本を引き寄せた。「じゃあ、ありがとうございました」。これで終わり。特に住所や名前を聞かれることはなかった。あっさりしている。
 
 今日持って行ったのは学術書だった。哲学の本で、やや値段が張る。四捨五入したら2万円だ。学生の頃に買って、社会人になったら読まなくなってしまった。もったいないから、勉強したい人のために役立ってほしい。
 
 そうは言っても、マニアックな学術書にどこまで需要があるかわからない。図書館に「いりません」と拒否される場合もある。実際、ホームページには「寄付されても受け取れないこともあります」と記載されていた。

 話題作じゃないしなあ、受け取ってもらえるかわからんな、と思いつつカウンターに行ったら、今度も受け入れられた。
 
 なぜか今回は「お礼状はいりますか」「中にお忘れ物がないか確認します」「仮に受け入れできなかった場合、返却は必要ですか」と訊かれる。前のあっさり対応はなんだったんだ。このへんは、対応する人によってまちまちらしい。
 
 学生だったころ、毎日のように通ったのを思い出しつつ帰宅する。
 
 この図書館で自分が読みたい本を借りて、裏表紙に「寄贈」のスタンプがあると、いつも不思議な気持ちになった。誰がこれを買って、しかも寄付してくれるんだろう。おかげで、関心がある分野のたくさんの書籍が読めた。
 
 「買えよ」というツッコミはあるだろう。それはわかる。だけど、興味関心のあるものすべてを購入して手元に置けるわけじゃない。まして学術書は、単行本だと何千円もする。さらにマイナーな語学の辞書になると数万円する。これをぜんぶ、学生の頃に買うのは無理だった。
 
 あとは、買うのに心理的ハードルを感じていた洋書を借りられたのは、大きい。初めてポール・オースターを原文で読んだとき、それは図書館から借りたペーパーバックだった。何回も借りて、繰り返し読みたいからついに自分で買った。最初に買った洋書は、だからオースターなのだ。
 
 「なんだ、横文字の本って自分でも買えるのか」という、ごくあたりまえのことに気づいたあとは、本棚に増えていく一方だった。サルトルもカフカも、もちろんポール・オースターの別の著作も。つたない語学力のくせに、でも原文で読んでいると、外国語の映画を字幕なしで楽しんでいるときの、あの気持ちになる。
 
 誰でもすこしは経験があるんじゃないだろうか。アメリカやイギリスのドラマを見ていて、登場人物の英語がちょっとわかったとき。あっ、聞き取れた!と思う、あの感じ。
 
 図書館で、寄贈された本を借りた最初の経験がなかったら、きっとそのあとはなかった。「本を寄付できる人」に憧れがあった。裏表紙にある「寄贈」のスタンプ、いつかわたしもそっち側に回りたい、いまはそんな余裕がないけど。そう思いながら学生生活を過ごしたせいで、いま「こっち側」に回ったことが、なんだか不思議なのだった。

 
 
 図書館の話はここまで。ここからは、最近の気になるニュース。
 
 遠隔操作で、両手を使った細かい作業ができるロボットが開発された。どれくらい細かいかというと、ピンポン玉をジャグリングできるレベル。260万で使えるらしい。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。