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アンチテーゼ~断捨離なんていらない

 思うに、すべてを引きずって歩んでいける強さがあるのなら断捨離なんていらない。

 驚いたことに、断捨離って言葉は商標登録してあるのだけれども

「断捨離」のそれぞれの文字には、ヨーガの行法(ぎょうほう)である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)に対応し、
断:新たに手に入りそうな不要なものを断る
:家にずっとある不要な物を捨てる。
:物への執着から離れる。

wiki 断捨離

 思えば小生は物に執着しながら生きてきた。子どもの頃に夢中になって遊んでいたおもちゃやプラモデルをいつまでも取っておいたし、中学生から集めだしたレコードやCD、雑誌の切り抜きに至るまでできる限り捨てずに来たし、楽器類は30年超えで使っているものばかり。パソコンもwindows98くらいから使っていた奴をあれこれパーツを変えながら使える状態にしてきた。もちろん様々なケーブルやパーツも取ってある。

 新たに手に入りそうな不要なものという概念は限定的に当てはまりはするものの、用途だけではない思いがそこに宿ってしまいがちで、なかなか捨てられない。フライパンを新調しても古いフライパンはちょっとしたことに確かに使っているし、古い包丁も食材以外を切るために使ったりしている。

 家にずっとある不要な物を捨ててしまうよりも、それがあることで過去の自分と今の自分の時間軸がしっかりとつながっていることを確認できるほうが、なんだか落ち着く。

 このなんだか落ち着くが、新しい物に対して心が移ったタイミングこそ捨てるタイミングなのだろうけれども、そういうことを見過ごしてしまうのは悪い癖だと言っていいだろう。

 親元を離れる時、すでに時代遅れになっていたアナログのレコードやカセットテープ、レーザーディスクを新居に持ち込み、好きなものに埋もれた新生活は、自分の部屋がそのまま移送されたようで新しさよりも安心さが大事に思えたし、その時に購入した料理器具や食器のほとんどがいまだに現役だ。

 壊れた冷蔵庫や洗濯機とかではない限り、なんとなくそばに置いておきたいと、押し入れやらベッドの下やらに押し込んで捨てることを放棄してきた。

 だがしかし、そうも言っていられないというときはやはり来るのだ。その時は思いっきりぶん投げる。まだ使えると思っても捨てる。断捨離するときはいつか必ず訪れるのだ。

 自分がこの世にいなくなった時に何を残すのか。引き出しの奥にしまってあったエロいDVDを子供や孫に観られたくないのであれば、或いは大事にしていた楽器やレコードを廃棄させられるよりは、自分の手で誰かに託すという選択をしたほうが、物への執着のあるべき姿なのだろうと小生は思う。

 思いたい。

 もし誰かほかの人が捨てられなくて困っているのならば小生はいかにいらないものはいらないのかという話を相手が納得するまでするのだろう。人には言える。自分ではできないのが断捨離なのだ。

 そう思う。

 業者に600点近いアナログレコードを引き取ってもらうにあたり、小生はレコードをある程度ジャンル分けや新旧の順番などを考えて玄関前に並べたのだが、そんなことはまるで意味がないように次々と箱に押し込まれ、ものの数分で片付いてしまった。

 何時間もかけて汚れを落としながら並べた作業がまるで必要なかった。それを見て安心をした。小生は小生の好きなように物に手間をかけて、業者は仕事として効率を重視して片付けをする。どちらもそれで満足を得られるのだ。ここから先、あのレコードたちがどういう扱いをされるのかはすでに小生の手を離れているのだから思い測ることも憚れるのだ。

 必要なこととしたいことは別だ。

 倉庫の一つや別宅を持ち、それを管理してくれるような人を雇えるだけの身分であれば、こうはならないのだろうし、さらに執着が強ければ理屈を超えて、大好きなものを抱えて生きていけるのだろうけれども、それはこの際、言っても仕方のないことなのだ。

 今回の引っ越しのテーマは仕切り直しとこれから先のことへの足掛かりを作ること。次の一歩は今の生活の延長戦にはないのだと、なんとなく理解している。その理解が愛着よりも新しくデザインするための空間を必要としている。これは断捨離なのではなく、頭脳改革――新しい価値観を養うための脳内領域のフォーマットなのだと小生は考える。

 何かが耳元でささやく

 ”エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、古き骸を捨て、蛇はここに蘇るべし”

 2019年ごろに何があったのか。ここで書くべきことでもないので具体的なことはともかく、私生活においてそれまでやらずにいたことをあれこれやってみた結果、ものの見事にバランスを欠いた日常を送っていたのですが、そこから見えてきたものは、おそらくこれからの人生において新たなガイドラインを作成するのに役立つのだと思う。

 そしてもう、そのお試し期間は終わり。

 その10年前くらいから小説を書くようになり、人の行動原理や心のメカニズムについて考察することが身についた結果、自分が捨ててきた可能性があることに気づき、その世界を覗き見ては自分の立ち位置を見失わない程度に冒険を繰り返し、新たなロードマップが見えてきた。

 日々の延長線上に未来がある。そういう場所や時間は限定的にあるにしてもそれはいつか違った景色から遠くを眺めなければならないときがくる。そのときに必要なものや人との関係、それらの優先順位を再構築するためには、時に自分の手足を切るがごとき儀式を必要とする。

 それを断捨離というのならそうなのかもしれないが、小生の感覚にはちょっとマッチしない言語観だ。何か適当なものはないだろうかと思ったのだが、ネーミングなどどうでもいい。

 断捨離なんていらない。

 新しい領域を確保するのだ。

 

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