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古き骸を捨て、蛇はここに蘇るべし

 もうすぐ2019年年度の半年が終わろうとしている。
 この半年起きたことを整理してみようとあれこれ思い出していたら、自分史上、最大の黒歴史になる可能性があることに気が付き、げんなりする。

 2018年に「何事もやってみないとわからない」というテーマで、それまでの自分のライフスタイルから少し逸脱した1年を過ごした結果の 悪く言えば”しっぺ返し” ということになるのだけれども。

 見方を変えれば、それだけ刺激的でもあったし、わからないことがわかるようになるか、或いはわかりそうなところまできているのか。
 いずれにしても前に進んでいるのかは別として、幅は持てたし、改めて自分が持てない物は何か、自分が持っているものは何かを確認できたのかもしれない。

 そして現時点でも「何事もやってみないとわからない」は進行形なのだけれども、闇雲に手を出していたわけでもないんですよね。
 noteにこういう記事を書き始めたのは今年からですが、別のサイトで一時期は毎日のようにエッセイ的なものを書いていました。
 物語を書くのが好きな僕としては、少々畑違いのものでしたが、やってみたら、確かに面白かった。

 身近に起きたいろんなことを取り上げて、自分が感じたこと、考えたこと、思ったことを書く作業は、「日常」を小説に見立てて、その感想文を書くような面白さがありました。

 今振り返ってそれらの記事を読むと、あの頃にどんな人とどんな関わりを持って、自分が何を思い、どうしたくて、どうなったのか。
 未来の結果がバッドエンドであれば、それらはすべて黒歴史ということになるわけで、つまりはそうやって振り返った時に、突きつけられた現実の結果は惨憺たるものだったなと、現時点で思うわけです。

 しかし”げんなり”はしていますが、めげたりはしていません。

 まぁ、ありていに言うと”懲りてない”

 ”懲りる”にはその結果をフィードバックして次に生かし、つまりは反省をもとに次からはそうならないようにして初めて起きる事象。

 そして僕のマインドにいつからか根付いている感覚――

 ”なにをやってもダメなら、何をやってもいい”

 という思いきりが、事象をリサイクルさせ、本当に駄目なものと、状況や条件的に駄目だったものの選別ができるよになるわけで――まぁ、しかし、痛い目に合わないとわからないというのでは、いい歳をして困ったものなのでございます。

 それを回避するのが――

 ”大人になってからの嫌な予感は、だいたい当たる”

 この”嫌な予感がする”というのは、正直、他の誰かに具体的に伝えることの難しい類のことなのですが、要は経験からくる非論理的な予測ということになるでしょうか。

 経験があるがゆえに、それを整理して論理的に何かの判断材料にするというのは、当たり前のことなのですが、経験したからと言って、なぜそうなったのかを理解できなければ、不十分というものです。

 しかしながら、何事も完全に理解することは難しく、当たり前に僕の視界から見えていないところで何かの作用があった結果、予測もしないような事態に陥ったとして、次からそれを回避できるかと言えば、方法は”何もしない”ということしかなくなるわけです。

 自分の経験則や他人の経験則に当てはめて予測する作業は、常にその陰の部分に留意しなければ、思わぬ落とし穴にはまることもあるわけで、それを回避できるとすれば、”嫌な予感”に従って、”備える”ことしかないのです。

 暫く前に僕が毎週配信している『めけラヂオ』というトーク番組で「9」をテーマにしたことがあります。
 たとえば末尾9の年というのはいろいろと変わり目になる事件が起きて、古い物が壊れ、壊され、新しい物が台頭してくるという印象が強いという話なのですが、つまりはこういうことが、嫌な予感の一つに挙げられると思うのですよね。

 ”去年はよかったが、今年は9のつく歳だから気を付けよう”

 そう考えると恐ろしいのは、年度単位であと半年、年単位であと3か月あるわけで、これ以上悪くはならないだろうと楽観視しつつも一方で”嫌な予感しかしない”のであります。

 ”この歳になっての嫌な予感はだいたい当たる”

 このあたりを踏まえて、この先のた打ち回ろうと思うわけでございます。

”エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、古き骸を捨て、蛇はここに蘇るべし”

1981年の映画は主演:千葉真一・沢田研二、監督: 深作欣二によって製作され、日本では観客動員数200万人・配給収入10億5000万円[1]を記録した。(wikiより)

 選択肢としてはあっても、今まではこっちは選ばなかったというほうを、何事もやって見なければわからないという考えの下に”試してみる”というのは、確かにリスクを負います。

 映画『魔界転生』では、”どんな人間にも死に際して、心残りになるようなことは必ずある”として、魔人となった天草四郎時貞は、次々に死者を蘇らせていきます。

 さて、僕が今やっていることは、そうした心残りを”あのとき、ああしていれば”という、自分が選択しなかった可能性について悔いるよりも、現生の内にやって悔いるのもありじゃないかと、そう考えたからとも言えます。

 もちろんそれによって破滅的な結末になっては元も子もありません。

 自分がこれまで培ってきた”嫌な予感”をあてにしつつ、少しばかり人生のふり幅を大きくできたら、今は黒歴史でも、この先にきっと一つや二つの新たな選択肢が現れるのではないだろうか。

 古き骸を捨ててこそ、活路が開くという可能性について、もう少し楽しんでいこうと思います。

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