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好きの嘘と誠

 僕はここのところずっと、心のメカニズムについて考えている。なんとも無駄な時間である。知ったところで何が変わるものではないと理解しているからだ。
 しかし僕にとっては重要なことで、今、物語を書き進められないのもそのあたりにおそらく原因があるのだと思う。

 物語を書くにあたり、しばしば登場人物が勝手に動き出すことがある。それはある種のAIを搭載したキャラクターのようなもので、作家は脳内に物語の世界を作り、その世界で人は何を考え、何を思い、どう判断し、選択し、何をして何をしないのか。何がしたくて何がしたくないのかというアルゴリズムを形成し、主役から端役まで、一貫した行動原理に基づいて多元的な行動をとる。

 さて、恋愛小説を書くにあたり、積極的にヒロインがあこがれる誰かにアプローチするという物語を書くとする。それは甘酸っぱかったり、ほろ苦かったりという経験の投影か、或いは妄想によって描かれていくのだけれども、そこには、必ず嘘が存在する。

 読者を物語の世界に引き込むためには、簡単に恋愛が成就してもらっては困る。だから心のメカニズムを作家が構築し、或いは記憶のデータベース上から抽出して、できるだけ簡単にはいかないような演出を施すわけで、それによってつかなくてもいい嘘やしなくてもいい行動を登場人物に演じさせるわけなのだけれども。

 さて、現実の世界では、ダメ元でアタックして結果がでなければ次の人的な思考の人や、それらを平行して行う人、或いは恋に恋をしてそれが成就した瞬間にさめてしまう人やら、数多可能性があるわけだけれども、それらは観察者によって目撃された振る舞いの部分とその人の内面から見た一人称の部分との整合性が必ずしもとれているとは限らないのである。

 私はこの人が好きです。と公言している人の見た目の振る舞いと、その人の内面が一致しているとは限らないことが、まず、理解して頂けるかどうかが、僕にはとても不安なのだけれども、いずれにしても僕は僕自身がそうであるように、人は自分自身をそれほど簡単には信じられるようにはできていない。

 なぜなら疑うということは生きるうえでとても重要な思考の一部、感覚の一部であり、疑うからこそ信じることができるというのが、僕の持論であり、卵が先か鶏が先かという話で言えば、卵も鶏も同じ時間軸に存在しなければならないという第三の答えを言ってしまうところに、そのことをできるだけ多くの人に理解或いは共感をしてもらうために、僕は言葉を尽くし、時間を費やすのであり、嘘の中にこそ真実があり、真実の中にこそ嘘があるのだという多元的な思考とそれを立証すべく、僕は心のメカニズムについて向き合う必要があるのである。

 恋愛に置き換えるのなら、『好き』と『好きでいたい』、『好きになりたい』、『好きでありたい』は、卵が先か鶏が先かという一元論で語ってしまっては、物語としても、人間としても、すこぶるつまらないのである。

 僕が思うに、『好き』という感情、心についてもっとも信頼できるのは『好きになってよかった』という過去と現在が合わさった状態であり、未来においてその感覚が変質してしまわない状態は安定的に、定型的に『好き』という感情を純粋に抽出できる『好き』であると考える。

 では逆にそれ以外の『好き』はどうであるのか。僕はそれらはすべて嘘を含んでいるという立場を取る。

 そもそも人はなぜ、人を好きになるのか。恋愛感情とは何なのかを考えればそれは生殖本能であり、心とは無縁の遺伝子レベルの生物的機能であると理解している。

 これは以前にも語ったことなので詳しくはこちらをご覧ください。


恋の期限は3年前後であり、愛情の期限はそこからさらに3年前後であり、人類が爆発的に増えるためにはこの周期を複数の人とこなす――つまり一夫多妻、多夫多妻ということがより自然であろうと考えたわけです。

 改めて読んでもひどいこと書いてますね。まぁ、しかし、これとあわせてこちらもそうなのですが。

 すなわち人間だけが言葉を使って求愛をする。その言葉を使うのは本能なのか、論理的思考なのかと考えたとき、この二つの機能を使いこなす心がそれをするわけであり、動物は好き嫌いで相手を選ぶと言うよりは種の保存、生存を優先して相手を選ぶのだから心はいらないのだけれども、人は求愛をするのにまず”好き”という感情――すなわち心が作用をするわけで、ではなぜ人間は人を好きになってから生殖活動=まぁ、つまるところエッチをするのかといえば、それで子供ができたとして、人間の子育てと言うのは他の動物のそれとは趣がだいぶ違う。

 つまり好きという感情は生殖本能の表れであり、求愛を言葉を持ってするとき、「子供を生みましょう」ではなく「好きです」という表現になるので本質的に「好き」という感情は嘘であるというのが一点です。

 さて、ここで卵と鶏の話に戻りましょう。ここからが本題です!

 人は社会的動物であり、群れて生活をします。それを維持するために社会が崩壊しないように心というコミュニケーションツールを使って、以心伝心、意思疎通を行い、争いを避ける。そのための知恵としての嘘は必要不可欠であり、それを大義名分と言い換えてもいいし、道徳や倫理観による欲求の抑制といってもいい。

『人類最大の嘘は神の存在である』と言うのと同じ勢いで、僕は「好き」は嘘であると考えるのですが、しかし今は『神が先か人間が先か』という議論はしたくないので、「好き」の嘘についてに戻しましょう。

 好きになるという感情が子孫繁栄のためのプログラムだとして、しかしそのプログラムがあるからこそ、人を好きになるのかといえば、機能としてはそうであるかもしれませんが、生殖機能を起動するために人を好きになるということが条件的に必要なのであれば、さて、卵が先か、鶏が先か。

 すべての人が天動説を信じていれば、世界はそのように振舞うし、地動説を信じれは、やはり世界はそのように振舞う。
 好きという感情が嘘を含むと知れば、好きは嘘になるが、すべての人が恋する気持ちは誰もが持っていて、愛の結晶として子を授かると信じれは、それは嘘とは言えなくなる。

 ほぼ、ペテン師の言い草ですが、これもひとつの見方です。

 好きになるとはどういうことなのか、たとえばこんな言葉たち。

一緒にいる時間が早く感じる
また会いたいと思う
ふとした瞬間に思い出す
自然な笑顔でいられる
話を真剣に聞いてくれる
何気ない一言が胸にささる
いつも頭の片隅にいる
失いたくないと思う
代わりはいないと思う
その人のことを考えると元気が出る
いつもありがとうと思っている
眠れないときに顔が思い浮かぶ
辛いときに声を聞きたくなる
嬉しいときに連絡したくなる
怒ったときに本気でぶつかることができる
困ったときに本気で助けてくれる
困っているときに本気で助けたくなる
一緒にいると心が落ち着いて素直になれる
どこにいても何をしてても一緒にいたいと思う
いつでもどこでもどんなときでもギューしたい

 とても可愛らしい反面、そこには必ず小さな嘘が含まれるなんて思っちゃったらなんだか、台無しかもしれませんが、これらの言葉は結局のところ好きな人と一緒になって子孫繁栄をすべしという遺伝子の命令に従って現れた言葉だと解釈すると8割がたそう見えてしまう。

 以前何人かの女性に好きになるとは、どういうことだろうかと話をしたことがあるのですが、結局のところ「ずっと一緒にいたい」と思うことが好きになることだという話か、直球でエッチしたいかどうかという話になります。

 反面、男性の答えはいまひとつ一貫性に欠ける印象があり、俺を立ててくれるもあれば、黙ってついてくる、しかってくれる、やさしくしてくれる、おっぱいが好き、顔が好き、お尻が好きとバラバラなようで、それすら遺伝子のなせる業と言って説明できなくもない。

 卵が生まれるためには、鶏になる卵を産む、鶏でない何かの存在が不可欠で、その意味では卵が突然変異をするのではなく、見た目は鶏ではなくても、鶏の成分を宿した(すでに変質した遺伝子を有した)存在が不可欠です。

 言い換えれば好きは動物的な機能を有していなければ成立せず、好きになっている状態は、好きだけではない、つまり心だけではない身体があるからこそ引き起こされる感情であり、「好きになってよかった」は、肉体的な制限から分離した状態であり、子孫繁栄とは無縁である状態であるからこそ、好きの純粋な状態というのが、僕の得た結論です。

 だから人を好きになりましょう。ならなければ、「好きになってよかった」は得られないのです。もちろん、逆にそれによって傷つくこともあるかもしれません。

 そんな人たちのために恋愛小説や、ラブソングはあるのでしょう。

 どんなにメカニズムを理解しようとして、何か真実めいたもものにたどり着いたとしても、それは思考の中の出来事でしかありません。
 人を好きになるというリアルは、結局のところ好きになって見なければわからない。

 シュレティンガーの箱の中の猫のようなものかもしれませんね。


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