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【心の解体新書】7.人はなぜ怖がるのか~お化け屋敷とポルターガイスト

【心の解体新書】は筆者が一年後(2025年夏)までに『人はなぜ幽霊を怖がるのか、人はなぜモノマネを笑うのか』というお題に対して答えていくための思考メモです。そのために
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素
といったテーマを今後掘り下げていきます(改変、追加削除あり)

 人と恐怖の関係、怖がりたい人の心理について前回は検証しました。文末に『お化け屋敷』を扱ったちょっとした『恐怖の煽り』を書いてみましたが、どうでしたか?
 怖いと思ってもらえば――つまりお化け屋敷に行きたくないと少しでも感じてもらえたらうれしいのですが、ここで重要になるのがいかに読み手に怖いというシチュエーションを想像させるかという点です。
 これは物書きの人間であれば、特に怖い話を得意とする方にはご理解いただけると思うのですが、およそそうした話を得意とする人は基本的に怖がりであると筆者は考えています。自分が怖いと感じることをどうにか人に伝えたいという気持ちで、そうした物語を書いている方がほとんどではないでしょうか。
 筆者が尊敬してやまないアメリカの作家、スティーブン・キング氏もこの点は同じのようで、アメリカには大体大きなクローゼットがあって、そこに何かひそんでいるかもしれない=ブギーマンという怪物がそこから生まれるわけですが、アメリカにはこんなジョークがあります。

『ブギーマンがやって来た』(フランシスコ・デ・ゴヤ画、1797年頃)wikiより

When the Boogeyman goes to sleep every night, he checks his closet for Chuck Norris.
(毎晩、ブギーマンは寝る前に自宅のクローゼットにチャック・ノリスがいないかチェックするんだ)

wiki ブギーマン

 チャック・ノリスという俳優はアメリカにとっては勇敢な男を象徴する俳優で、ときにその勇敢さはこのようなジョークで表現されます。キングもクローゼットにブギーマンがいるかどうか確認してから寝るような子供だったのだと思います。ですがそのブギーマンですらチャック・ノリスを恐れているというのがこのジョークの笑いどころなのですが、日本なら藤岡弘かなと勝手に小生は想像してにやけてしまいます。
 チャック・ノリス・ファクトは面白いのでぜひ読んでみて下さい。ブギーマンとチャックノリスの関係はキンカンの法則に即しているかもしれませんね。

 さて、ブギーマンの想像上の容姿についてはいろいろありますが、パット見た目、子供が怖がってシーツをお化けと見間違えた姿であることは容易に想像できます。スティーブン・スピルバーグ監督の映画『ポルター・ガイスト』では小さな子供がどんなものを怖がるのか、とてもうまく描写していると思います。

 この映画、ジャンプスケアシーンもありますが、当時中学生だった筆者にとっては怖さの共感とそれを科学的(大人の理屈)に対処しようとする大人たちとその原因がとても分かりやすいオチ(因果)が存在し、悪霊を使った勧善懲悪的ストーリー展開になります。しかし、そこには自然の摂理、道義に対する傲慢さへの警鐘も含まれ怖いというよりはいろいろな感覚を刺激されるホラーのジャンルを超えた(ホラー的題材を使った)娯楽作品となっていますので、怖い映画苦手な人にはお勧めです(多少グロいシーンもありますが当時の特殊メイクなので大丈夫かと)。
 さて、ここで起きる心霊現象(ポルターガイスト)の一番の被害者は一番幼い女の子です。お兄ちゃんはお化けに対して普通に怖がりますが、無垢なる存在の少女にはそれが怖いものだとは感じていないようです。これは想像力と知識の問題であり、この記事の主題の一つである「人はなぜ幽霊を怖がるのか」を検証するのに重要な要素だと考えます。

 そもそもお化けを怖いと思うのは、お化けがこの世のものではないという知識とそれが自分に危害を加えるという恐怖心がなければ成立しません。この少女は真夜中に砂嵐しか映らないテレビの中から語り掛けてくる声に恐怖心を感じるよりも有効な存在として認識しています。この認識の差が幼女、少年、大人でまるで違うことが映画の中で描かれています。
 両親はそれを危険なもの、娘の病と現実的なアプローチで対処しますが次第にそれが自分たちの常識を超えた存在=超常現象であると気づき、専門家を雇います。心霊現象を科学的に解明しようとする科学者、悪魔祓いを生業とする霊媒師。この映画ではそれらのアプローチがことごとく通用せず、最後は笑ってしまうほどド派手な展開になります。さすがはスピルバーグ。恐怖をしっかりとアトラクションとして楽しませてくれます。そして『ジェラシックパーク』Tレックスのように悪霊を扱います。
 ここで大人的な脳を持つ人は、ストーリーの展開に注視し、怖さのギミックりょりもエンタメ作品として楽しむ方向にシフトしていきます。最初は怖がっていた子供もおそらくは似たような感覚でこの映画を「怖かったけど、楽しかった」で観終わるのだと思います。

 しかし、家に帰りベッドに横たわったときに思い出すのです。最初に女の子の兄を怖がらせた存在、ピエロの人形のことを。筆者は怪獣のソフビは好きでしたが人を模した人形、特にフランス人形のようなリアリティのある人型が怖くて、そういうものは目につかないところに置くか、目に入らないように寝ていました。ポスターの中でほほ笑む女優さんの視線すら寝るときには見ないようにしていました。

 もし、人形が勝手に動いたら。もしポスターの中の瞳がこちらを見たら。そんな妄想が恐怖心を産み、怖い夢を見るに至ります。それは夢だったと思えればまだいい方です。夢なのか現実なのか区別がつかないときが一番厄介です。少年時代の小生は母親にこっそり頼んでカレンダーの向きを変えてもらったことがあります。そこに移る女性の視線がどうしても嫌だったからです。しかしここで不思議なのはなぜそんなものを怖がるようになったか。
 これは筆者の例であってすべてに当てはまるわけではないかもしれませんが、人形はあの有名な怪奇現象、髪の毛が伸びるというお菊人形のことを知ったから。そして写真の視線はとある情報バラエティ番組で生放送中に起きた生首の掛け軸のことを知ったからだと確信しています。番組を自分はリアルタイムでみていたのですが、怪奇現象が起きるという生首(打ち首になった罪人を描いたものだったか?)が描かれた掛け軸を紹介した時にその生首の視線が動いたと視聴者から電話が殺到したというのです。ことの真意はともかく、少年を怖がらせるには十分な「怖い話」であったし、見ていた自分が気づかなかったということがさらに恐怖心をあおりました。

 自分のきづかないところで、実は恐ろしいことが起きているかもしれない

 知識と想像力が生み出す恐怖には際限がありません。怖いことはどこまでも想像し、その想像を裏付けるような情報を探せば探すほど、この世界には怪しげな話に満ちています。

 さて、お化け屋敷の話に戻りましょう。お化け屋敷は構造上、そして演出上、入り口と出口が横並びになっていることが多いと思います。ひとつは入りやすくするため。怖い場所でもここから出られるとわかれば安心できます。そして怖がって出てきた人を見れば、このお化け屋敷は怖そうだから入ろうと怖がりたい人は思いますし、すました顔で出てきた人を見れば、そんなに怖くなさそうだから大丈夫か、と思って入ります。人は自分にとって都合のいい情報を優先する傾向があります。
 映画『ポルターガイスト』では心霊現象の因果が観客にはわかりやすく示され、登場人物たちもそれに従って事件は解決します。物語の最後、家を失った家族はモーテルに泊まるのですが、ここで見事なオチを見せます。父親はモーテルからテレビを外に放り投げ、この映画は幕を閉じます。これはお化け屋敷の出口と似たような効果があると同時に、あなたはこの映画を見て家に帰ったらどうしますか?という見事な問いになっています。
 父親はテレビを捨てました。おそらく子供は人形をしまうでしょう。そして母親は娘と一緒に寝るでしょう。恐怖に対する解決方法が観客に対して行われていることが、この映画がエンターテイメント作品として評価され、それをやってのけるスピルバーグという映画監督の素晴らしい点だと思います。ジェラシックパークでも子供たちが恐竜を嫌いにならないように最後にTレックスに活躍させるところも実に憎い演出です。

 ところが現実はどうでしょう。お化け屋敷も映画も作り物。消費される娯楽として都合のいいように作られています。現実の恐怖体験に対する逃げ道は、人形を隠したり、テレビを捨てるだけでは解決できないのではないでしょうか。なぜなら世の中はよくも悪くも怖い話に満ち溢れているからです。それは人が知識と想像力によって無限に恐怖を作り出す生き物であることの証明でもあります。どんなに科学が進歩したところで、人から恐怖心を完全に取り除くことはできないと筆者は考えます。
 もしそんなことが実現したのだとしたら、人は今とは違う生き物になってしまうのではないでしょうか。

 これは持論であり、人にとっては妄言、暴言に聞こえるかもしれませんが、人間だけが神を持つのだと筆者は考えます。すべての生き物に対して神は公平で平等だとしても、それを生み出したのはやはり人という生き物の死に対する恐怖に対抗する妄想の産物、そしてその量が多ければ多いほど妄想は現実味を帯びてくる。
 同じように死の恐怖の象徴としてゴースト、幽霊が想像によって創造されたのだと思います。妖怪は事象から、幽霊は死への恐怖から魂という概念を生み出し、その概念の延長線上に魂だけの存在=幽霊を自動的に生み出した。これは人の知性が生み出した心の安全装置の一つであると考えます。神と同列とはいいませんが、神が魂の救済をするのであれば、その魂を認識した姿の一つに幽霊が存在する。
 幽霊を信じない人はいますが、魂の存在を否定する人はそれよりは少ないのではないでしょうか。これは矛盾です。魂も幽霊も計測不能な意識の存在、知識の存在、認識できる、言語化できる存在です。信じるという言葉の範囲も科学的に証明可能かどうかでいえば、どちらも同じだと筆者は考えます。そして科学は常に見えないものを観ようとしてきました。何かの事象を観察可能にすること、それはいや応なしに人が持つ好奇心の産物なのかもしれませんが、同時に未知に対する恐怖心を払拭するための人の知恵でもあり、習性でもあります。
 筆者は幽霊に対する科学的アプローチを人類が諦めることはないと信じています。そしてそれが永遠に解き明かされないことも期待しています。
 世の中には不思議なことが必要なのです。人が傲慢にならないためにも、人が何かを妄想する力を失わないためにも。

 最後に、人が何かを怖がるのは避けたい恐怖と怖がりたい恐怖があるのだと考えます。前者は生命の危険と社会的存在を脅かす存在。後者はアドレナリンを適度に分泌するための生理的欲求。この二つを前提として考えた場合、幽霊、または幽霊のような存在を怖がるのはいったちどちらの「怖がる」なのでしょうか。そこに「人はなぜ幽霊を怖がるか」のヒントが隠されていると思います。
 そしてポルターガイストやお化け屋敷を怖いと思うのは、そこに恐怖を補完する情報が盛り込まれているからだと考えます。恐怖を補完する情報=それはクローゼットのような物陰、閉鎖された空間、お化け屋敷の暗闇とおどろおどろしい効果音、それらは人が怖いと思う何かを起草させるきっかけになり、人はそこにはないものを想像して怖がるのではないでしょうか。
 この夏、ぜひお化け屋敷に足を運び、良質なホラー映画をご覧ください。スプラッタでもジャンプスケアでもなく、あなたの恐怖体験を呼び起こすような情報を含んだ何かを、どうか見つけてください。

見事にクローゼットや暗闇の恐怖を描いた作品はこちら!

 


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