うそつきの来訪
今宵もまた、あの大うそつきがやって来た。
妻も子供たちも今日は出かけて帰ってこない。
時計は夜の10時をだいぶ回った頃だった。
かって知ったる他人の家。
奴はずうずうしくもいきなり部屋に上がりこみ、酒を飲むぞと座り込む。
「奇遇だな。ちょうど今、焼酎を開けたところだ」
封を開けたばかりの安い焼酎。それをお湯割で飲むのがあいつの流儀だ。季節が冬だろうと夏だろうと関係ない。
僕は少し前に沸かしたお湯をポットに移し入れ、ヨンロクで酒を作る。お湯が先に6、焼酎4を後から注ぐのがあいつの好みだ。
「ちょうど一年ぶりかな」
僕は旧友が前回いつ来たのかを、きちんと覚えていた。
「嘘付けぇ。そんなに経つかぁ」
「ああ、そんなもんだ。それにうそつきにうそつき呼ばわりされるのは、甚だ心外というものだ」
あいつは大きな目をより大きくして僕に抗議する。
「何を言っていやがる。嘘のひとつもつけないような奴を、逆に俺は信用できないね」
乾杯もせずに湯気の立つ芋焼酎をあおりながら、あいつはそう嘯いてみせた。このうそつきに『今日こそはぎゃふんと言わせてやる』と、前回果たせなかった心残りを果たすべく、僕は反論する。
「しかし嘘つきは泥棒の始まりって言うじゃないか」
僕も焼酎の水割りを勢いよくのどに流し込む。
「泥棒をこんな夜中に招きいれたら、家のものをすべて盗まれてしまうな」
あいつは他人事のように言ってのける。呆れ顔の僕を見てあいつは満足そうな表情を浮かべながら続ける。
「そんな顔をするな。お前、人間の社会はやるかやられるか。盗まれるほうが悪いに決まっている」
むちゃくちゃな言い分だが、思い当たることがないわけでもない。
どんなきれいごとを言っても、或いはどんなにスマートな生き方をしようとも、人類社会は何かの犠牲の上に成り立っているのだということは、ニュースや新聞、ネットの記事を見れば知ることとなる。
それを意識するのか、見て見ぬ振りをするのか、或いはそうしたことにまるで気づかないでいるか、目と耳を塞ぎ思考を停止させ、ひたすらに日々の暮らしに没頭するのか、方法はさまざまだが多かれ少なかれ、社会システムというのは強者が弱者から搾取する構造をしているのは歴史的に見て明らかだ。
でもだからこそ、僕は正論を盾にして、矛先をあいつに向けた。
「そんなことだから、いつまでたっても人は争いをやめられないんじゃないのかな。不正を正し、嘘で固められたあんなことやこんなことを止めなけりゃ、いずれ人類は滅んでしまうんじゃないか。ならば、一人一人ができるだけ正直に生きること。そうでなければ社会は変えらない。世の中すさむだけだよ」
自分でも偉そうなことを言っているなと思いながらも、あいつとのやりとりは常に対立軸で展開し、酒が進むのである。その遊びを止める気にはなれなかった。
「いやいや、それこそみんな正直に生きてみろ。何が起きるか想像できるだろう?」
あいつは大きな目をさらに大きく見開いて挑発的な態度を取る。
「たとえばだ。合コンをしたとしよう。きれいな姉ちゃんには『お姉さん、おきれいですね』と正直に言うのはいい。しかし『オッパイ小さいけど』という本当のことは言わないだろう。それに女子が三人いたとして、そこには優劣があって、それを『あなたが一番、君は二番、そちらの御嬢さんは圏外ですね』とか言えるかぁ。普通。『みなさん、おきれいですね』とかなんとか言っちゃって、その場を楽しくやり過ごせない奴とは、俺は合コンにはいかないぞ」
それは笑えない事実であり、僕自身があいつに合コンの極意とは、一番きれいじゃない女子の機嫌を損なわない事こそ肝要だと説いたことがある。
それはそれで若気の至り、今ならそんな恥ずかしいことは言えない。
だからこそ反論しないわけにはいかない。
「ああ、確かにそんなことを言った覚えはあるぞ。だがなぁ。そこでご機嫌をとった挙句、お目当ての女子をみすみす他の男に取られるぐらいなら、正直に、まっすぐに一番お気に入りの女子にアタックしたほうがよかったと今は後悔している。やはり嘘は損だ」
「損して得取れと言うぞ」
「ああ、損な役割をしてきたからこそ、それこそ嘘だと俺はお前に言いたい」
あいつは一瞬動きを止め、大きな目を何度も瞬きしておどけて見せる。
「まぁ、飲めや。今夜は飲むぞ」
「ああ、それには俺も賛成だ」
二人は飲みかけの酒を一気に流し込んで、それぞれの方法で自分の酒を作り、やっと乾杯をした。
「なぁ、良い嘘とか悪い嘘とかあると思うか?」
僕は嘘について、別の視点で話を振った。
「カネに色がないように、嘘にも色はないな」
「しかし、『嘘から出た実』というものもある」
「いや、『嘘も方便』というが、方便は方便だ。嘘には変わりはないぞ」
「しかし、確かにあるだろう。ついて良い嘘と悪い嘘というのが」
テンポよく会話が進む。あいつとはいつもこうだ。
「良いか悪いかではなく、喜ばれるか、そうでないか……だな」
僕は考える。思い出す。僕がこれまでついてきた嘘のことを。その様子を見てあいつはここぞとばかりに痛いところを付いてきた。
「なんだ、想い人にでも『うそつき』呼ばわりでもされたか。この女泣かせが」
「そういきなり本題に入るなよ。そこは嘘でも気を使え」
あいつは生き生きとしながら畳み掛けてくる。
「おお、これが世に言う『嘘から出た実』ってやつだな。まさかお前が女を嘘で泣かすなんて、思ってもみなかったわ」
小憎たらしいおどけた態度で悪態一歩手前、言い得て妙、蜂の一刺しである。
「泣かすと思っていたらそんな嘘はつくかよ。いや、嘘じゃない。正直な気持ちを伝えたら、嘘だと言われた。そして泣かれた」
「馬鹿だなぁ。女の涙を信じるとは、嘘のなんたるかを丸でわかっちゃいない」
いよいよ僕は憤慨して言い放つ。
「実際に泣かれてみろ。ぐうの音も出ないぞ」
「パーを出して負けたんだろう。最初にチョキを出す奴は性格が悪いぞ。気をつけろよ」
得意気なあいつの顔を見ていて腹が立ち、僕は思いつきで作り話をもちかけた。
「男子のほとんどはいきなりのじゃんけんで最初にグーを出すそうだ。だからあえて『最初はグー』と掛け声をかけることで、その割合を減らしたそうだ」
「へぇ、それは本当か?」
僕は沈黙した。
「おい、それは嘘なのか。本当なのか。本当だとしたら、確かにそうだな。だいたいグーを出す。女子はパーを出すというのは、やはりそのことを知ってのことだったのか。なるほどありえるかな」
僕は行き当たりばったりの作り話が、よくよく考えると的を射ているように思えて変な気分になった。『変な気分』というのは、これまさに『嘘から出た実』、しかし、それをばらしてしまっては、どうにも釈然としないというか、あいつにやられっぱなしも面白くなかったので、さらに嘘を重ねてみることにした。
「なんかのテレビ番組で幼稚園生を集めていきなりじゃんけんをさせたら、6割強、その傾向があったとか見たことがある」
「ほう、なるほど。子供であればなおの事データとしては嘘がなさそうだな。俺たち大人は変な知識やジンクスを頼りに素直にパッとできないものなぁ」
「ああ、大人になると素直になれない。だからこうして酒を飲んで、素直さを取り戻すのさ」
適当についた嘘の話が、こうして酒を飲みかわすことの正当性にまでたどり着いたところで、いよいよおかしくなって僕は笑い出した。
「酒は嘘を解かす。さぁ、飲もうじゃないか」
「おう、今夜はいくらでも付き合うぞ。また、いつ来られるかわからんからな」
嘘をついたせいか、心なしか酒がまずく感じたが、それはもしかしたら違う理由なのかもしれない。僕はもっとそのことについて話を詰めたかったはずなのに、嘘ではぐらかしてしまった。後悔と言う奴は、いつでも苦く、不味い物だと知った。
するとあいつはそれを知ってか知らずか、ぼそりと自分話をこぼし始めた。
「女の涙は強烈だが、一日経てばけろりとしたものさ。アレと別れたときもそうだったが……」
あいつにはおしかけ女房のような彼女がいた時期がある。それも実家である。僕からすればそれは当然、結婚まで行くものだと思っていたし、別れたと聞いたときには、驚いた以上に、あいつを随分と批難したものだった。
「別れたこと、本当に後悔していないのか。お前」
あいつは沈黙を守りつつ、酒を流し込む。
「何かつまみが食いたいな」
僕は「ふむ」と答え、立ち上がった。
「冷蔵庫に何かあったかな」
台所を物色し、ツナ缶ときゅうりを見つけた。
「ツナサラダならすぐ作れるぞ」
「おう」
きゅうりを斜めに薄く切り、それを千切りにして軽く塩を振って水気を絞る。ボールにあけてツナを入れてマヨネーズで和え、そこにさっとコショウをかけた。
「さすがだな」
「どう致しまして」
先ほどの会話はなかったことにしてもよかったのだが、それも気持ちが悪いので違う角度で切り込むことにした。
「あの子は料理の腕はどうだったんだっけ」
「パスタはうまかったな。あとはなんとかという料理が、まぁまぁ美味かった」
「なんだよ、そのなんとかって」
「横文字のこじゃれた野菜の……なんか美味いソースをつけて食う奴、なんとかパウダー」
「ガーニャカウダーか」
「そうそのガーニャパウダー」
「いや、カウダー」
「うるせえ。カウダーでもパウダーでもどっちでもいいじゃんか」
「洒落ているなぁ」
「ああ、洒落ていて、なんだかやだった」
「そういうものか」
「ああ、そういうものだ」
それから『いつも』のように昔話に花を咲かせ、いよいよ焼酎が底をきる。
名残惜しくも最後の一杯。時計は長い針と短い針がてっぺん誘うとしている。
「今日はこれぐらいにしておくか」
あいつはそう言うと、グラスの底に残ったわずかなしずくを大きな口に落とし、やや大げさな動作でテーブルに空のグラスを置く。
「そうか、もういくのか」
「ああ、もういく。いかないといけない」
いつもそうだが、去り際にやつは『さようらな』を言わない。右手を顔の横に上げて大きく手を広げる。その手を振りはしない。ただ上げる。そして大きな目をさらに大きく見開き、小さな哺乳動物のように激しく瞬きをする。
「また来いよ」
「暇なときにな」
「ああ、暇なときに」
薄くなる。
あいつの黒々と焼けた肌に見えるそれは、実は季節に関係なく黒い。その黒い肌がすっと透けていく。白くなるのではない。黒く薄い影となって細かい粒子に変換、或いは還元なのか。蛍光灯の粉のような乾いた質感の粒になり、やがて肉眼では見えないような微粒子へと還っていく。
「まったく、たいしたうそつきだよ。お前は……」
長針と短針が重なり、今日という日の終わりを告げ、明日という今日を迎える。
あいつの命日が正確にいつなのかはわからない。
8年前、山に行ってくると家を出たきり、あいつの消息はぱったりと途絶えてしまった。
そういうことがそれまでなかったわけではなかったが、15年前に親父さんがなくなった後は、お袋さんに心配はかけられないと、そういうことはなかっただけに、身内の中では心配をする声もあったし、僕自身も嫌な胸騒ぎがあった。
『この年齢での嫌な予感はあたるんだよ』
その言葉は、僕が言い出したのか、あいつが言い出したのだったか。僕が家庭を持ってからは、会う機会もずいぶんと減ってしまったのだが、それでも僕の母親の葬儀には駆けつけてくれていた。
僕の唯一の親友。
今、この家には僕しか居ない。妻と子供二人は、義理の姉夫婦の家に泊まりで出かけている。
5年前にもそういう日があった。そのとき不意にあいつが僕を訪ねてきた。今までどうしていたんだ。心配をしていたぞと問い詰めても、要領を得ない返事しか返ってこない。妻と子供が居ない分、1人でゆっくり焼酎でも飲もうと買っていた芋焼酎を二人で飲み干し、僕が冷蔵庫にまだ何かあるかと探している間にあいつは忽然と姿を消した。
翌日、あいつのお袋さんから電話が来た。とある山中で身元不明の遺体が見つかり、それが自分の息子であることを昨日確認してきたというのだ。
なんて奴なんだ。
よりによって、僕のところに化けて出るとは笑止千万。幽霊なんか信じないという割に、実はお化けを怖がる臆病者が、なんて間の抜けたことをするのだと、僕は笑った。涙が出るほどに笑った。
それから毎年今ぐらいの時期、僕が夜中にひとりでいるときにあいつは酒を飲みに来る。姉夫婦には悪いが、僕は何かと理由をつけて、妻と子供たちを送り出し、焼酎を買い込んで奴が来るのを待つ。
ためしに焼酎を二本用意したが、一本空けると奴は消えてしまう。ならば二本同時に空けたらどうかと試そうと焼酎を買い込んだが、なぜだか二本目を開ける気にならなくなる。
不思議なこともあるものだと思いながらも、こればかりはどうにもならないのだと諦めるしかない。それにそうしたことを試そうとしたとき、急に酔いがまわり意識が朦朧として前後不覚となり、気づくとあいつは居ない。
そうしたことを何度か繰り返し、導き出したあいつの迎え方。
部屋に1人でいなければいけない。
先に封を開けて飲み始めなければいけない。
酒は焼酎、日本酒、ウイスキーどれでもいいが五合を超えない。
録音・撮影・筆談など形跡が残るものは厳禁。
来るのは22時から23時の間、滞在は24時を超えない。
他にもある。料理はほとんど手をつけず、乾き物や簡単なものだけ少量つまむだけ。嫌いなシイタケと納豆を出したことはないが、おそらくそれもNGだろう。ワインやカクテルも然り。ちなみにビールは僕が痛風持ちなので対象外。
そして一番やってはいけないこと。言ってはいけないことは――。
彼の死にまつわる質問である。
まったくもって不可解であり、不条理ではあるが、不愉快ではない。むしろこうしてあいつが来ることを毎回楽しみにしている自分が居る。
この世でもっとも着いてはいけない嘘。
それは『生きていることを偽ること』に他ならないのだろう。
でもだからこそ、僕は、あいつの嘘にどこまでも、付き合ってやろうと思うのである。
うそつき
そうなのだ。
僕もまた、その片棒を担ぐ、うそつきなのだ。
こんな嘘を信じてくれる人が居るのなら、一緒に飲みたいものである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?