ラーメン屋である僕たちの物語1st ⑤
「Sweet Candy Rain」
『いらっしゃーせー』
「ヨシミサン、ネギ取ってもらえますか?」
「はい」
厨房の冷蔵庫の扉を開けて、「めじろ切り」したねぎを渡す。
『あざましたー』
「ヨシミサン、洗い物お願いできますか?」
「はい」
食事後の丼、コップを手洗い、すすぐ。
『お待たせっしたー』
「ヨシミサン、ライスお願いできますか?」
「はい」
炊飯ジャーから器にご飯を盛る。
『いらっしゃせー』
『あざしたー』
そんなやりとりを一営業中に何度も繰り返す。
時は未だ第三次ラーメンブームの真っ只中。
今日も8坪の小さな店は沢山のお客さんを飲み込んでは吐き出していた。
僕がめじろでアルバイトを始めて1ヶ月近くが経った。
少しずつではあるが、仕事も覚えてきた。
「ヨシミサン」
僕に妙な敬語で話しかけているのは、当時社員として働いていたSさんだ。
Sさんは元々、戸塚にある高校の教師だったが、めじろのラーメンにハマって通っているうちに親父と仲良くなり
「ラーメン屋は儲かるぞ!
君に年収○00万円あげたい!
うちに来ないか!?」
と口説かれて、まんまと教師を辞めてめじろに就職したらしい。
親父は天性の「人ったらし」なのだ。
人の懐に入り、心を掴むのが上手だった。
(この才能は弟に引き継がれていると思う)
地方出身のSさんのご両親は、息子が教職員になったことを大変誇らしく思っていたと言う。そんな中での転職だ。当然猛反対されたが、押し切ったそうだ。
Sさんは僕より10は歳上だったが、店主の長男が後輩になってとてもやりにくそうだった。
そして僕は
このSさんを完っ全に舐めていた。
「お客さんがお金に見えます」
「お金をもらえると思ったら、なんでも我慢できます」
と、恥ずかしげもなく言うSさんが嫌いだった。(見てたらごめんなさいw)
おまけに(アルバイトの僕から見ても)仕事もできないのだ。(見てたらごめんなさいw)
どこを切っても尊敬できるところは見つかりそうもなかった。(見てたら以下省略w)
一方、その頃、弟の祐貴は、既にめじろを辞めていた。
後日知ったのだが、祐貴は親父から給料手取り20万/月で手伝ってほしいと頼まれて引き受けた。
しかし、蓋を開けてみたら手取り¥5,000/月だったそうだ。
おわかりいただけたであろうか。
1ヶ月働いて
報酬¥5,000だ
その後も約束通りの給料をもらえないことが数ヶ月続く。
一人暮らしを始めていた弟は、生活費に困ってサラ金をつまんだ。
その返済をしなくてはいけないからと、めじろを辞めて新聞配達の仕事を始めたのだ。
(その新聞配達員時代に出会った先輩が今の蔦のシェフ伊丹(たみ)くんだ。そして数年後、祐貴は再びめじろに帰ってくる。しかしそれはもっと後のお話。)
祐貴に辞められて親父は困っていたのだろう。
そこに久しぶりの僕が登場だ。
だから親父は渡りに船とばかりに、僕に声をかけたのだと思った。
それでもきっと、親父もどこかで、今まで希薄だった息子との触れ合いを求めていたと、今も信じている。
さて、僕の先輩であるSさんは、(何度も言って申し訳がw)本当に仕事ができなかった。
言われたことすらできず、理解ができず、いつも親父に叱られていた。
しかし、今思えば親父の教え方にも問題はあった。
親父は技術を理論化できないのだ。
「パッてやって、グッてやって、サッてやるんだ!」
「これがグワって来たらパーン!」
なんて説明を僕も何度もされた。
こんなのが許されたのは長嶋茂雄か親父くらいだろう。
「見て覚えるから見習いっていうんだ!」
を地でいくタイプの職人だった。
「俺は技術を教えられないんだよな」
親父がぽつりとこぼしたのを思い出す。
そりゃ、Sさんのような、答えのある問題ばかりを解いてきて、教えてきた人にはわからないよな。僕はそう感じていた。
そんなある日…
いつになっても仕事を覚えられないSさんに
とうとう親父の堪忍袋の緒が切れた。
「S!てめえ!何度言えばわかるんだ!俺はもう、てめえがわからねえ!」
「…ぼくも…ぼくだって!…親父さんがわかりません!」
Sさんが毎度のごとく、小さな失敗したところ、見かねた親父がカウンター越しに激昂した。
8坪の店内外に轟く怒号。
幸いランチ営業後だったのでお客さんはいなかった。
普段、親父に反論なんてしたことのないSさんも精一杯の声を絞り出していた。
Sさんは唇を震わせながら、泣いていた。
彼も彼なりに思い悩んでいたんだろう。
僕は目の前の修羅場を他人事として眺めていた。
歳上の大人が叱られて泣いたのを初めて見てしまったバツの悪さもあった。
Sさんも僕の前で泣いてしまったのは、プライドが許さなかったはずだ。
男として。
数日後、Sさんの退職が決まった。
僕がアルバイトに入って、半年ほどの短い関係だった。
辞める際、僕がしていた数々の失敗を親父に告げ口したようで、親父から事実確認をされた。
事実と違うようなこともあったが、言い訳すると拗らせそうなので全て飲み込んだ。
「…やっぱりSさん、嫌いだわあ」
親父に詰められながら、ぼんやりとそう思った。
(Sさんはその後、都内の東長崎駅でラーメン店を開店した。「自分の店ならちゃんと頑張れるなんて腹が立つよなあ」と親父はぼやいていた)
翌日から親父と僕の2人体制が始まった。
今まで接点の乏かった親子が、小さな店で2人きりの時間を与えられることになった。
噛み合ったことのない歯車は、最初からギクシャクと軋みながら回っていたように思う。
そんな風に軋みながら過ごした2年余りの中で、親父と2人で過ごした数ヶ月、僕は親父の天性のセンスを目の当たりにしていくのだった。
…to be continued➡︎
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