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就活と終活と死活 

 noteを投稿し続けようと言いながらも、記事の更新が途切れてしまった。飽きたというわけではなく、ここ数週間の間、少し忙しかったのだ。

 もちろん、就活についての用事もあった。学びのため、そしてある命題に対しての研究の為に入学した大学で、実際にそれをできるのは、2年生までという現実がある。

 結局のところ、就活の期間を短くするためとは言われるが、インターンシップが本選考と繋がっている以上は、3年から就職活動を始めざるを得ない。

 だが、早期から就職活動を始めたところで、その結果として手に入れるものが、体が老いてボロボロになるまで働き続けることのできる”権利”とは、皮肉だなと感じる。

 就職活動は、学生企業間の双方向的な取り組みと見られがちだが、そうではない。

 学生は、人生のレールから外れないよう、汚い言葉で言えば浮浪者にならないよう、死物狂いで就活に望む。

 だが、企業にとって、それは人事の業務のうちの一つでしかない。学生がどれほど内面をアピールしようが、意味がない。たかが応募書類と面接で、人間の人となりを知ることなど、不可能であるからだ。

 就活は、市場だ。商品である学生は、その商品価値によって、消費者である企業から選ばれる確率が変動する。

 形の悪い野菜よりも、小ぶりで新鮮な野菜を。マニアックな商品よりも、大衆向けの商品を。

 就活は、残酷である。自らの価値を高めることのできなかった商品は、消費者からも選ばれず、ゴミと一緒に廃棄される。

 就活は、終活。


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