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森田療法と論理療法(REBT)【書評】あるがままに生きる 大原健士郎

セルフヘルプ心理学は、ほぼ読書療法だ。自分の間違った考え方を、読書で形作りなおすことができる。論理療法(REBT)で言う非合理的な考え方(イラショナルビリーフ)は、自分の外からもたらされる言葉の力で打ち砕くことができる。凝り固まった自分の考えを、本・書物の力でコツコツ砕いていくことができる。

森田療法の本で、読み方次第では、単なる「説教集」と思えないこともないけれど、私も目から鱗が落ちるような考え方をいくつか、この本から学んだので、紹介してみたい。

「気分本位」よりも「行動本位」

「これは何も神経症の人に限ったことではなくて、普通の人にもあることなんだ。今日はどうも気分が重いとか一日中モヤモヤするとか気分本位に眺めていくと、いろいろある。しかし行動の面を重視してみると、多少気分の変動があっても日常生活がきちんとできるようになったとすると、それほど行動の変動はない。そのときどきの気分を病気とみなすか、それはそれとして日常生活がきちんとできているから健康とみなすか、という問題だね。あなたは、まだまだ気分を重視している面があるのではないかという気がする。」(P98)

森田療法では「気分本位」という言葉をよく用いる。自分の「気分」を最重要視する考え方で、気分が少しでも悪ければ、すべてが台無しになってしまう人がいる。しかし、大原氏が指摘するように、絶えず気分が良い日、良い人なんてめったにないのだ。

気分が悪かったり、疲れたりしていても、やるべきことを淡々とやることが必要なのだ。そこで「行動本位」という言葉が出てきます。「行動」しない言い訳として「気分」を使わないことだ。

論理療法(REBT)を絡めて私が興味深いと感じたのは、落ち込んだり、憂うつになる人というのは、やはり「気分」を重視しがちなのではないかということだ。おそらく、こういう思い込みがあるのだろう。

「私はどんな時でも気分がよくあるべきだ。もしそうでなければ耐えられない。」

自分の気分を完全にコントロールすることはできない。気分が良い状態が望ましいのはもっともで、それは合理的な考え方だが、気分の良さに「絶対」を求めると途端に非合理的な考え方となる。

この信念が強ければ強いほど、荒波の中の小舟のようにあちらこちらに振り回されることになるのだ。人の気分なんて一日のうちで何度も変わるもの。全くさざ波も立たない海など無いのだから、その要求は不合理で非現実的なのだ。より合理的な考え方は「気分が良いにこしたことがないが、もしそうでないとしても、やるべきことは行える」というものになる。

言葉にすると驚くほど単純だが、一度、自分を縛り付けている愚かな考え方に気が付けると、それ以降、一気に楽に行動できるようになることもある。考え方次第なのだ。

良い人間関係は手段にすぎない

「人間関係をよくするのは、人生の最大目標ではなく最終目標でもない。人間関係を形成するということは、さらに大きな自分の希望とする目的を達成するために、基本的に大事なことだ。だから、人との付き合いを重視してやっていこうとということで、一つの手段だ、人生をよりよく生きるための手段にすぎないのだ。人前でオドオドしないで、うまくしゃべれたからと言って、別に威張ることでもないんだし、そういう人に限って言うべきではないことを言ってみたり、その場もわきまえずにはしゃいでみたりして、客観的にみると人に嫌われたり、人に不快感を与えている可能性が強い。」(P174)

社交不安障害だったり、対人関係を極度に重視する人は、手段と目的が入違ってしまうことが少なくない。

人生を旅に例えれば、ゴール目的地につくためには連れ合いがいればその道は楽しいものだけれど、必ず連れ合いがいなければいけないわけではない。時には、苦しくても一人で黙々と上ることが必要な時だってあるのだ。いつでも、最良の人間関係を得なければならないと考えると、それは、人を苦しめる非合理的な考え方になる。

論理療法(REBT)のエリス博士はよく「愛がなくても生きていける」と言っていた。

私は最初は、この言葉は腑に落ちなかったのだけれど、大原氏の指摘と合わせて考えると分かる気がする。

「私はどんな時でも愛が無ければ生きていけない。もしそうでなければ耐えられない。」という極端で非現実的な信念を持てば、出会う人、出会う人に媚びて、必要以上の人間関係を築こうとする愚に陥りがちだ。崇高な目的を持つ人は、時に伴走者が誰もいなくても、そこに向う必要があることを知っている。

森田療法のいう「目的本位」であれば、良い対人関係は「あればよいもの」という合理的な考え方になる。より合理的な考え方は下記の通りだ。「私は目的を達成するためには、人が時に孤独であることも理解している。良い人間関係があれば、それにこしたことはないが、そうではないとしても耐えることができる。」

こんな感じになるかね。屁理屈っぽいけど、これが論理療法なので。

「神経質」は治らない

「たとえばある人は豪放磊落で物事にこだわらず、いつも高笑いしている豪傑肌の人だとしよう。しかし、それを裏返せば無神経で図々しく、人の気持ちもわからないような自分勝手な人だというように見られるんだよ。だから、神経質というのは、取り越し苦労が多くて小心者で、グズグズ不平を言っているとみられるが、裏を返せば、非常に細心だから失敗も少ない。人に対する配慮も行き届いている。人の身振り手振りや話しぶりから人の心を敏感に悟って対応するから、慎み深いとか、いい性格だとか言われる。規律も守るし、いい仕事もする。このように、性格というのは両面がある。だから自分の性格を知って、できるだけ良い面を発揮するようにし、悪い面は見せないことが大事だ。」(P51)

自分の細かな性格を治したいと意気込む人がいるが、変わらないものは変わらないと受け入れることも大事だ。この点は、別記事でもしっかりとりあげてみたいと思う。神経が細やかな人には悩みがつきものだけれど、神経が大雑把な人にも悩みがつきものなのだ。

「この性格さえ治せば、もっと幸福になれる」というのは非合理的な考えで、「この性格だからこそのメリットがある」と考えるのは合理的な考えになる。ありのままの自分を認められるようになった時に、その時に人は満足感を抱けるのではないだろうか。

森田療法と論理療法

日本独自で発展してきた森田療法と、論理療法(REBT)には驚くほどの類似点があります。どちらも「受容的な態度」を教育しますし、目的本位の「行動療法」的な側面を持つ心理療法です。

言葉にすると当たり前のことしか言っていないと思えるシンプルな方法は、人の非合理的な考え方を粉砕し、合理的な考え方(ビリーフ)を獲得させるものになる。論理療法は、面と向かってセラピストから諭されると、本気で腹立つと思うので、読書療法で、コツコツ自分の思い込みに立ち向かうのが良いのではないかと思っている。


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読書感想文

大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq