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6月第1便:「言語化」と「すきまのコミュニケーション」

To涼花さん

こんにちは。
近頃雨つづきで、すっかり梅雨らしくなってきましたね。
雨の日の不調は、ホットタオルで耳と首を温めるといいらしいです。(整体師さんから教えてもらいました)

今月は私から往復書簡を始めたいと思います。
テーマは「言語化」です。
言葉にすることって難しいけど、しないと伝わらない…そんなモヤモヤを取り上げたいと思います。

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私は「名前のつかない生きづらさ」(「周縁化された生きづらさ」)について研究しています。
なぜそのような研究をしようと思ったかというと、自分自身が生きづらさを抱えているからです。
また、研究方法も「オートエスノグラフィー」という自らの語りを活かす方法を用います。
つまり、自分の「生きづらさ」を積極的に言語化することが日々求められているわけです。

ただ、どうしても言葉にできないときもあります。
それはモヤモヤが言葉に昇華できなかったり、
言葉にしたくないというタイミングであったりするからです。

そういうとき、私は自分が声を失ってしまったんじゃないかと思うほど語れなくなってしまいます。

具体的な言葉に触れることも煩わしく、日本語の研究書や専門書よりも、曖昧さが際立つ詩や洋楽に触れることが増えます。

ただ、表現はどこかしらで無意識にしていて、
それは料理だったり、ギターの演奏だったり、日記の落書きだったり、ちょっとした動作だったりします。

そうやって、言葉にできない時間をやり過ごして、また言語化できる自分を待つんですね。

自分自身は、これはこれで悪くない時間の流れだと思っているのですが、
そのあいだ、他者とつながりにくくなることは少々しんどいなぁとも思います。

言語は、共通の言語を知る者同士のあいだでは、誰とでもつながれる便利なツールです。

でも、自分にぴったりくる言葉と、他者が理解できる言葉は異なる場合があります。
それらが重なれば嬉しいし、すれ違えばより孤独を感じます。

つまり、共通の言語を見つけ出し、それを他者へ共有する「言語化」という営みは結構労力がかかるんですね。

では、「言語化」ではない「表現」によって、他者とつながることはできるのでしょうか?

たとえば、まなざしやしぐさ、声色の変化で応答しあうこと。
独自の言語表現(創作言葉やオノマトペなど)、絵やダンスなどから感情を読み取り合うこと。

そういう「すきまのコミュニケーション」は、言語化からこぼれ落ちてしまうものをやり取りする可能性を持っているのではないでしょうか。

「すきまのコミュニケーション」を持ちつづけるためには、どんなもの(環境、方法、姿勢など)が必要なのでしょう…?

まだまだ考えることはたくさんありそうですね。
今回、私は

言語化できないとき、必要でないときもある。大切なのは、それを埋め人とつながる表現である「すきまのコミュニケーション」を持つことなのでは?

と問いかけてみました。

言語化に対するざっくばらんなご意見、私の問いかけに対する答えなど、涼花さんの自由なお返事を楽しみにしています!

Fromマシュウ

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