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「差別」という化け物は何なのか②

昨日に引き続き
少し重めの話になるのですが
つらつら書いていきます。


昨日は「分断」が争いを生むし
「差別」は恐怖からくるのでは

という自分なりの見解を書きました。

今日はまた別の角度から
「差別」について考えてみます。


先に結論から言ってしまうと
差別に限らず、社会の中には
「概念」があることによって起きていることがある、ということです。


何日か前に
新潟水俣病の裁判を10年続けている
被害者の会代表を務める男性が
ご自身のことを「化け物だ」と語っていたのが印象的だった。


怒りやいろんな気持ちが綯い交ぜになるが
自分の気持ちは深い水底に沈めて
今は勝つために 化けているしかない
自分は化け物だ

差別や偏見は地域に強く刻まれており
裁判をすると決めてから10年
息子夫婦との関係は断絶
一度も会っていないという…

かなりショックだったが、現実だった。


前述の通り
「差別」という概念があるから
そこに「差別が生じて」しまう。


もし
「『差別』という概念」を持たずに生きていたら、どんな行動を取るだろう?

一人ひとりの意識の中に
差別という概念が無かったら、何が起きるのだろう。

きっとそこに差別は存在していない。


よく「差別を無くそう」と活動する人々に対して
「それを訴えている時点であなたたちの中に『差別』がある」という意見があり

正直、なるほどな…と思った。

私たちが何かについて考えれば考えるほど
そこに概念が生まれてしまい
いずれそれは形になる。


だから差別を無くそうと思ったら
差別について考え、議論するのではなく
その概念を無くしていく」方法を考えた方がいいのではないか。


ただ実際問題
差別はその下に恐怖を忍ばせているし
比較することによって満たされる優越感や自己肯定感も強力だから
変えていけるかどうかは分からない。


でもこの「差別」が無かったら
障害を持っていると分かっても
生まれてこれる命はあっただろうし
生まれてからも
障害を感じずに生きていられるのかもしれない。


やっぱり差別は
恐怖でもあるし
優越感でもあるし
可能性でもある

人の心の中に巣食って
変化(へんげ)している「化け物」なのである。

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