「差別」という化け物は何なのか①
ジッドゥ・クリシュナムルティという思想家が好きだ。
私は思想家と捉えているけど、彼の肩書きは様々ある。
宗教家であったり、教育家であったり、著述家であったり、神秘家であったり。(神秘家って何だ)
なぜ彼は日本ではあまり知られていないのだろう?
ガンジーくらいには存在感あってもいいと思うのだけど。
その生涯に多少の問題があるからだろうか?
私も詳しくは知らないし
何やら、きな臭い感じもするし
そうでもないような気もする。
不思議な異彩を放つ、魅力的な人である。
彼の言葉と生涯に触れると
透き通った静謐な真理の面と
人間臭い情に満たされた面とが掻き混ぜられていて、とても人間的だな、と
私なんかは思ってしまう。
(気になる人は検索してみてほしい)
彼の言葉(というか考え)で好きなのは
「『分断』が全ての争いを生む」
というもの。
今起きている戦争も全て「分断」から起きている。
領地を巡る争い
境界を巡る争い
資源を巡る争い
過去に起きた争いを振り返っても
その多くは「何か」と「何か」を分けたことによって起きている。
その何かと何かには「優」と「劣」も含まれる。
「あなた」と「私」を分けることは大切だ。
あなたはあなたであって、私ではない。
私は私であって、あなたではない。
だから基本は自由でいていい。
比べることも必要ない。
従うことも必要ない。
誰もあなたを奪わないから
争う必要もない。
でも実際は違う。
人は人と「何か」で比べる。
「区別」で終わっていればいいのに
「差」をつけて勝ちたがる。
強くなければ生き残れなかったからだろうか。
強い者が弱い者から何かを奪ったからだろうか。
私たちの遺伝子に
「強い者が勝つ」
「奪われたら奪い返せ」
という情報が、残念ながら少なからず刻まれているように思う。
その奥に潜んでいる根源的なものは何だろう?
私は、「恐怖」だと思うのだ。
奪われる恐怖
負ける恐怖
そして
死への恐怖
その「恐怖」が
分断や差別の行動を正当化していく。
「あいつは劣ってるから存在する価値はない」
「自分は特別だからあいつから何かを奪っても許される」
極端な例えではあるけど
(意図的にしろ無意識にしろ)
分断を生むことで
巧妙に恐怖を隠しながら
安心したいのではないだろうか。
このことは正直、もっと掘り下げてみたいので
また明日に続く……
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