場面緘黙ってどんな状態?

(場面緘黙の子を持つ親御さんの悲痛な思いや、場面緘黙の「分からなさ」への不安や焦燥感、絶望感のお話を聞く機会があり、夜中に書き殴った文章。また修正するかも知れません。(発達凸凹の話も出てきます。)

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幼児期に場面緘黙を経験した私は、薄く発達特性があったと大人になってから判明しているが(場面緘黙とは(日本ではあまりメジャーではないようだが)関連があると元当事者としては納得いくことがたくさんある。

自他の区別がないとか、自己が曖昧という状態は、自分の場合はもしかしたら、かなり早い段階で乗り越えていた気がする。わかりやすいASD特性持ちの我が子のような会話の通じなさその他もろもろはなかったそうなので。

ただ、定型発達の「人と交流しても怖くない」自己はどうやら生成(?)しなかったらしく、記憶にある初めの段階では、「自分という身体をしたものと「別に」自我のようなものがあって、その自分が「私」という狭い殻の中で外の世界を眺め、外と混じれなかったという感じ。
これが、自分にとっての場面緘黙の状態。

この「自我のようなもの」が、自分の身体から離れる…と言うと解離しているかのようで誤解を招きそうだけど、それとは違い、「自分は自分である」ことは保った上で、心の底の自分(「わたし」とする)とは別にそれが存在している感じがあった。
他人の振る舞いを、その自我のようなものが情報収集し「コピーし」、演技として「声を出せるようになった」のが、形だけは場面緘黙を離れて声が出せるようになった状態。この、「自我のようなもの」が、浮遊する(…というのも何だか違う感覚だが、移動する視点という感じ。ここはASDと考えると納得)周りの情報をキャッチし、「わたし」はそれを「無条件に受け入れてしまい(この辺りは受動型ASDぽい)」、自分というものは、「存在しているけれど隠されてしまう・見えなくなってしまう」。「わたし」がいるのは自覚しているが、他者と関わる時はその「わたし」は自分から離れたところから伺っている感覚になるのだ。

なので、場面緘黙を「声だけは出せる」という形で克服しても、本来の「わたし」が他人と直接交流できないことには変わりはない。。


場面緘黙で声を発せず、自分の奥底に、外に出られない「わたし」が隠れていた頃は、集団の場などではひどく従順だったように思う。

ただ、「その他大勢の人の行動をして真似することは出来ても、「直接」自分に指示された時は、大きく動揺し、「手本がないから」どう動いてどう答えたら良いか分からなかった。集団生活は、模倣をすることでのみ乗り切っていた。

場面緘黙を、ただの緊張とか繊細とか捉えていても、(もちろん、結果から見ると「声を出すことに慣れていけば」場面緘黙を克服することは可能だけれど)本人が他者に持つ、原始的とも感じられる人への恐怖は、完全に無くなりはしないということ。
「勇気出して話してみたらそのうち慣れるのに!」ではないこと。

これらは、やはり認知度が低いように思う。場面緘黙の「特定の場で一定期間以上話せない」という定義に従うとしたら、「声を出せるようになった」ら、「治った」ということになるかもしれないが、「元場面緘黙」だった人の話を聞いていると、話せるようになってからも、他者との「壁」に苦しんでいる人は少なくない。


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緊張ガチガチでも声だけは出せる、けれども、耳に届く自分の声はまるで他人のもののよう、という状態から、少しずつ「自分の声」に聞こえるようになって行ったが、場面緘黙から30年以上経った今の自分は、「外の情報に翻弄される」こともありつつ、「言語化できるようになった自分」が表に出てきて制御できないと感じることがある。

「他者の話を聞いて理解しながらも別の話をする人間」になり、言われた通りに行動できなくなってしまう。(待ち合わせにどうしても遅れてしまうとか、周りが動かずじっとしている場面でカバンをゴソゴソしてしまうとか)

慣れ親しんだ家族の前では「本来の自分」(上記の「わたし」に近いもの)で居られる感覚があるが、外での振る舞いについては、

・全く声が出なかった頃→「わたし」が直接外と関われないが、まだ「移動する視点」を身につけていないため、「声を出す=他者と関わる」ことは不可能

・声が出せるようになった頃→他者の模倣として話す(「移動する視点」から得た情報で)、ただし本来の自己(「わたし」)ではないため苦しさを感じる

・話すことに苦しさはない現在→いったん「言語化して」「理屈で」語る傾向があり、他者と直接心を交わすことは難しいので一方的な発信となったり、過剰に同調してしまったりする。
「聞いているのに・理解しているのに」従えない感覚がある」

(あくまで自分の場合ですが、他者と向き合う時に本来の自己が見えにくくなるという感覚は、現れ方は異なるものの昔も今も同じものだなと感じています。)



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