受動型ASDは、「ぼんやり」なのか?

ASD傾向ありの人間は、好きなものや心を落ち着けるための手段を捨てると生きている実感がなくなり壊れてしまう。思春期の頃を思い出してあらためて感じる。

幼少期から、(昭和生まれなので情報源はTVという時代だったけれど)周りの子供達が次々と情報を更新していくことが、自分には理解できなかった。
流行りの歌、タレント、TV番組。社会ニュースにもアンテナが伸びなかった私は、自分の世界を守りつつも狭い世界から抜け出せられない、抜け出すのが怖いというジレンマに陥っていた。

同じく「傾向あり」の母が、「流行り物はくだらない」と言い情報を制限していたことも、私の世界が広がらなかった理由の一つではあるだろうけれど。

周りとのズレに気付き、変化を求めていた私は、小学校高学年頃から、全て周りの人基準で生きることを決めてしまった。

雑誌を買い漁り流行りの服をチェックする。
中学あたりから、周囲が途端にお洒落に目覚めるが、私は大人の女性を感じさせる服に強い抵抗があった…が、周囲から浮かないために、「苦しさを感じながら」流行りを「勉強」していた。

ただ、この時の失敗が「好きなこと」すら全否定してしまったことである。

大切にしていたシルバニアの人形や、対象年齢が幼いと思われる可愛いものを次々と捨てた。
モノ以外でも、今思えばこだわりだったと思われる、心が落ち着いたり幸せになったりする行動そのものも、誰も見ていないところであろうと自分に禁じた。

この辺りから、物事に触れた時の「感度」が突然鈍くなったことをよく覚えている。

中学生なのに物忘れが激しくなり、全ての行動を分刻みで指定し、メモを取らないと不安でたまらなくなった。

メモを取っても常に不安に駆られ、強迫的に、「流行り」を勉強する日々。(この後は、受験勉強などその都度「やるべきこと」に一時の安心を持ちつつも、常に心が不安な状態なまま思春期を過ごしてしまう)

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私は、ASD傾向があると言われたものの、目立った感覚過敏などはない方だと思う。よく気付く、気にしすぎ、敏感だとは幼少期から言われたものの、周りを困らせることは少なかったらしい。

ただ、自分の中では、特定の何かにはまったらとことんまではまり続けるという質を幼少期から自覚しており、そのことはなんとなく他人には隠すべき、見られたら恥ずかしいことだと感じていた。(洋裁にはまり、同じ大きさで狂いなく続く縫い目を見ていたら幸せだったこと、色へのこだわりがあること、服のブランドのロゴにはまりノートに書き写していたことetc)

中学頃に、「こっそり趣味にはまる」ことすら自分に禁じ、その後精神疾患にもなってしまったことを思うと、ASD傾向がある人は特に、「好きなことを捨ててはいけない」と思う。

受動型ASDの人は特に好きなことも無くぼんやり、自分の意見もないといった捉え方をされがちだが、
本当は、人生のどこかで他者との違いに気付いたり、誰かに咎められたりといった経験から本来の自分を隠し、「自分とは合わない世間の感覚」に適応しようとし、リアルな感覚を失っている状態では、とも感じる。

多数派とは異なる文化を持つものの、他者を意識することは出来ているASD人が、なんとか環境に適応しようと興味のないものをも無意識に取り込み同調しようとするが、そこには生きた感覚が無い。

他人から攻撃されることを怖れ、枠からはみ出ないように、「普通」とされている基準に合わせることに力を注ぐ。

…同調圧力の強い日本人なら、多数派でも誰しも、学校というシステムに合わせざるを得なかった経験はあるだろうけれど、

自分の場合は、「あだ名を付けてもらえなかった」ことや、「自分を出していない」とはっきりとクラスメイトに言われたことなどから、自分を出す方法が全く分からなかったのだろうなと感じている。

(私が経験した場面緘黙症や克服後の悩みは、この辺りにも関連があるだろう)

自分に近い人間ばかりの社会にいたら、私はもっと自己主張も出来ていたのではないか、話をする友人も出来たのではないか?と感じる。

感覚過敏・鈍麻が強い当事者の方とはまた異なる視点になるとは思うが、
「周囲に合わせながら」も、「自分の人生を全く思い描けなかった」タイプの自分について振り返ってみた。

(いきなり最後に飛躍するけれど、「狭い世界」から私を引っ張り出してくれたものは本や文章だった。

本や文章は、視覚的な情報の読み取りは得意だが「言葉」の力が弱かった私に、見えないもの(自分に関連がないニュースや「この場でどう振る舞うべきか?」といった、言葉の助けが必要となる情報)について、ある程度の初歩的な?情報を与えてくれるものだった。

自分で扱うことは苦手で、「自然に湧き出るもの」ではない言葉というものは、私が現実の社会で(擬態だとしても)生きて行くためのツールだと思う。

というわけで、「作文書けない」タイプのASDさんは「読書などの文章のインプット」や「どんなに拙くても良いので日記などを書く」ことから始めるのがオススメ…)


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