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雪ウサギ

一面の白銀の上を少女が無邪気にぴょんぴょんと跳ね回る様子を眺めながら私は白く凍える息を吐き出す、黒い雪雲の切れ間から強く差し込む光の帯の中を跳ねまわる少女は、荘厳な教会に飾られた宗教画に描かれた天使のように厳かで、私の胸をぎゅうぎゅうと締め付ける。私のすべて、私のかけがえのない宝物、目の中に入れても構わないような私の愛しい娘。夢中になって雪と戯れる少女は、ときおり想い出したようにこちらを振り返り、はち切れんばかりの笑顔で大きく手を振って見せてくる。私を信頼し、依存し、信じきっている小さな女の子。私が小さく手をふりかえすと、安心してまた雪遊びの世界に戻っていく。白い雪にてり返す陽の光に目を細めながら、私の吐いた息は、またも白く、白く、凍えて濁る。

ため息。

どうしてなんだろう、こんなにも愛しく、大事で、かけがえのないわが子を前に、私は時々、どうしようもない重く暗い気持ちを抱えてしまう。いつからそうなっていったのだろう、私は自分自身の思い描いた理想を完全に手に入れたはずだったのに。家族を何よりも大事に思ってくれる、優しく穏やかなパート―ナー。明るく、健やかに育ち、私に全幅の愛情を向けてくれる素直な娘。ずっとずっと幼いころから私が欲しいと切望していた理想の生活だったはずだ。あるいは、すべてを手に入れてしまったがための、憂鬱なのだろうか?完全な幸せというものはある種の牢獄めいたものなのだろうか。以前のすべてを手に入れる前の私が今の私を観たら呆れ、軽蔑するのだろう。きっと憎みさえするんじゃないだろうか。『私の切望するものを手に入れておいてなんでそんな傲慢なことを言うのか』と。

物心ついた時からずっと、幸せな普通の家庭にあこがれ続けてきた。母はいつだって忙しく、そうして厳しい人だった。愛されていなかったなんてことは口が裂けても言えない。私がまだ小さい時分に父に先立たれた母は、女手一つで、朝早くから、夜遅くまで働き。私を大学まで通わせてくれた。家事は多分得意ではなかったように思う、それでも睡眠時間を削り朝晩の食事を用意し、中学に上がればさらに早起きをしてお弁当を準備してくれた。当時から母の事は尊敬していたが、同じ母親になってその気持ちはさらに強いものに変わっていった、専業主婦で、家事に理解のあるパートーナーに支えられて、何とか子育てをやれている私にとって、母のあの頑張りようは同じ人間とは思えない化け物じみたものに思える。愛されてなかったわけがない。そんなわけはないのだ。だけど、幼少の頃の私は、いつだって独りで、ずっとさびしかった。身を粉にして働く母に感謝こそすれ不満もわがままも言えるわけはなく、私は暗くさびしい一人っきりの食卓でいつも母の帰りを待ち焦がれていた。周りの友達のように家族と過ごす食卓はどういう物だろうか。休日に家族で遊園地に遊びに行くというのはどういう物なんだろうか。もし私が大人になったら、どこにでもあるような『普通』の幸せな家庭を築きたい、寂しさを紛らわすためにはそんな大人になった幸せな自分の空想だけがあの当時の唯一の救いで慰めだった

ずっと憧れようやく手に入れたそれが、どうして私の心を重く沈ませるのかまるで理解できない。マリッジブルーもマタニティブルーも経験しなかった私に、ただそれが遅れてきただけなのだろうか、世の一般の親というものはこういう幸せな憂鬱にとらわれるものなんだろうか?

母は、母はどう思っていたのだろう?私の為に朝から晩まで働き私の幸せを見届けると、安心したように逝ってしまった母は、自分の人生に疑問に思う事はなかっただろうか?自分の可能性を制限する、私という厄介な足手まといを疎ましく思ったことは一度たりともなかったのだろうか?母は決して愚痴や泣き言を言う人ではなかったし間違っても私の前でそんな姿を見せる事はなかったけれど。きっと私に言えないまま抱えていった思いはあったに違いないと思う。

私は娘を愛している。疑問の押しはさむ余地もないほど明確に。自分の命すらこの輝きの前ではまるで問題にならない。

私は望んでいた最大の幸せを手に入れて、そうして幸せに続く道を見失ってしまった。幸せの到達点。幸福の袋小路。私はそこにたどり着いて、ここから先にはもう、何もないのではないのだろうか。ここから先にはもうこれ以上進めないのではないだろうか。

母も同じように幸福の袋小路に到達して逝ってしまったのかもしれない、無邪気に跳ね回る娘もいつか子を成し私と同じように牢獄に囚われてしまうのかもしれない、そうやって続いて行くのかもしれない。

袋小路なのに『続いて行く』なんてなんだか皮肉な話だ

視界の端で雪と戯れる続けている最愛の娘を確認する。娘は雪の固まりをこね回し、何とも形容できない珍奇なオブジェを一心不乱に作っている。そういえば母が珍しく一緒に遊んでくれた思い出は、こんな雪の日のことだったように思う。母が私の為に作ってくれた雪ウサギが溶けていくのが悲しくて私はわんわん泣きわめき、母を困惑させていた。優しくも厳しい母は、私のわがままに折れて見せるというようなことはほとんどなかったように記憶しているが、その時だけはなぜか、呆れたように、私の頭を撫でて、冷凍庫の端っこに雪ウサギの為のスペースを作ってくれたのだった

『ほら、ここに入れとけばずっと溶けないから、もう泣くのはやめなさい』

あの時の雪ウサギはいつまであそこに置いてあったんだっけ


いつの間にか空に薄く残っていた雪雲は綺麗に晴れ、青く澄んだ空がいっぱいに広がっている。陽が高く昇り始める。お昼前には切り上げて、昼食の準備をしないといけない。そろそろ帰ろうか?と娘を呼びに行くと、まだ遊び足りないと娘は嫌々をしてぐずってみせた。どうしたものかとしばらく思案したのち、

『お母さんが雪ウサギを作ってあげるからうさぎさんと一緒におうち帰ろう?』

と提案してみる

『うさぎさん!!』

娘は目を輝かせて眩しいぐらいの笑顔で私を見つめ返してくる

あのとき母が作ってくれたあの雪ウサギの作り方を私はまだ覚えているだろうか

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