見出し画像

【短編小説】好きになった日

終わりにしようと思った。何度も、何度も。でも本当に今日で終わりにする。「これで連絡は最後にします。今までありがとう。じゃあね。」短い文章なのに、打っては消してを繰り返し、気づけば1時間が経っていた。メッセージを送信して、右上の3本線からブロックをタップする。大袈裟なくらいため息をついた。それに続くように涙が頬をつたう。

大好きだった。顔も声も指もふわふわな髪の毛も、仕事ができるところもくしゃくしゃな顔で笑うのも煙草に火をつける仕草も、キスもセックスも。

職場では飄々と何でもこなすけど、私には仕事の愚痴をよくこぼしていたし、甘えてくる姿は大型犬のようだった。かわいいな、愛おしいな。この人とずっと一緒にいたいな。いたかったな。

でもそれは叶わないのもわかっていた。だって私はセフレの1人にすぎないから。わかっていても何度も期待をしてしまった。だって私があなたとセックスした回数は彼女よりも多いと言ってたから。でも、それは私に首輪をつけるための嘘だったのかな。

メンタル不調になると、私もつい愚痴をこぼしたり、これまで我慢していた関係性の不満を口にしたりすることがあった。こんなことを話したら嫌われてしまうこともわかっていたのに、どうしても我慢できない瞬間が定期的に訪れた。その度に彼は「距離おこう」と提案して私は泣いて謝る。もうしないから。私はあなたの不満を聞くけど、私の不満はあなたに溢さないようにしなくては。ありのままの私でいることを、あなたは求めていないんだと知った。

「あなたが求める私」でいるために「私」を出さないように、どこか奥へ仕舞い込むようにして日々を過ごしてきた。その積み重ねで私は私でいることを恥じるようになった。私という存在はどこにも必要とされていないような気がしていた。だけど、あなたのそばにいたかった。でも私が私を否定すればするほど自己肯定感は下がり続けてメンタルの調子は悪くなり、結果的に「あなたが求める私」から逸脱してメンヘラになっていくのを感じていた。大好きなのに。そばにいたいのに。そう思えば思うほど、「私」が出てきてしまう。

メンタルの調子の悪さは日常生活にも支障をきたしはじめた。仕事に行けない日が増えてきた。とうとう休職することが決まった。それはまだ伝えていない。まぁ、明日には会社全体のメールで周知されるだろう。部署が違う彼の耳にも届くはずだ。


初めて話したのは誰かが企画した会社の同世代飲みだった。中途採用組が何人か同時に入ったタイミングで年齢も近かったのが企画発案の要因だと聞いた。部署の垣根を越えて年が近い社員が15人ほど集まった記憶だ。企画された割には自己紹介もそこそこにぬるりと飲み会は始まり、私は近くに座る女の子2人と男の子1人と喋っていた。そこに何故かみんなの趣味を聞いて回っている女の子がやってきて、確か笠原さんだったと思うけど、「好きなバンドとかミュージシャンっている?アイドルでも良いよ」と聞かれたので私はミスチルと答えた。するとその子が大袈裟なリアクションを取って奥の方に座っていた彼を呼んだ。

「水瀬〜!篠崎さんもミスチル好きだって!」

水瀬というのか。私は人の名前を覚えるのが苦手だった。そこまで大きくない会社とはいえ、それなりに人数はいる。部署が同じ人は流石に把握しているが、それ以外は顔が何となくわかるレベルだった。水瀬と呼ばれた彼は喫煙所で何度か見かける人だった。背が高く、162センチある私より20センチくらい差がある気がした。黒髪パーマに丸メガネ。モテるんだろうなという余裕が伺えた。吸っている煙草が近年では珍しく紙巻で、私が学生時代に吸っていたのと同じ銘柄だったのも印象に残っている。私はもう随分と軽いものに変えてしまったが。彼は奥の席からゆっくりとこちらに向かってきた。

「初めまして〜水瀬です。あ、篠崎さんは喫煙所でたまにお会いしますよね」

顔は認識されていたのか。私も軽く挨拶を返す。そこから彼も交えて飲んでいた。2人だけで話すのも不自然だと互いに感じたのか、ミスチルの話題は特にしなかった。普通に楽しかったと思う。同世代ということもあって共通の話題が尽きなかった。1時間ほど過ぎて、私はトイレに行くと席を立った。ついでに一服したかったのもある。お店には加熱式のみの喫煙所しかなく、私は一旦外に出て近くのコンビニ前の灰皿を使わせてもらうことにした。皆いい人ではあるが、私はどうも大人数は疲れてしまう。社交性が乏しいのは自覚しているが今さら変える気もない。変わる気もしない。その場で愛想よく振る舞いはするが必要以上には近づかないスタンスだった。夜の空気に煙が溶けていくのをぼんやりと見つめていると彼がやってきた。ただ一服したかったのか、もしかしたら私と2人になるタイミングを伺っていたのかもしれない。

このとき、2人きりで話さなければ、自分のペースで「私」として苦しむことなく生きていけたのだろうか。でも、彼がいたことで救われた瞬間は数えきれないほどあった。彼がいなければ乗り越えられなかったことも。


結婚するという話を私は人伝に聞いた。それが一番ショックだった。どうして先に話してくれなかったのか。それとも結婚しようが私との関係は続けるから後回しにされたのか。この日を境に私のメンタルはガラガラと崩れるように悪化の一途を辿った。だから、私は私でいるために別れを告げた。


「篠崎さんってミスチルのアルバム何が好き?」
「え?一枚だけ?」
「うん、今の気分でも良いから1枚選ぶとしたら?」
「難しいな……あ、じゃあせーので言おう」
「お、いいね」

せーの、とお互い口にしたアルバムは優しさと柔らかさと毒々しさが絶妙なバランスで混ざり合う作品(だと私は勝手に思っている)、「IT'S A WONDERFUL WORLD」だった。私は32にもなって好きなものが一緒だったという馬鹿みたいに単純な理由で恋に落ちた。


iPhoneからSpotifyを開く。Bluetoothのスピーカーに接続して、「IT'S A WONDERFUL WORLD」を再生する。壮大な序曲を経て「蘇生」が始まる。涙を拭うのも放棄して私は目を瞑り音楽に自分の感覚を委ねた。だけどそこにノイズが入る。インターホンが鳴った。絶対に出ない方が幸せだと思う。そんなことは分かっている。だけど立ち上がってしまった。モニターに映る姿を確認して私は音声を繋ぐ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?